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相模国準四国八十八箇所
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相模国準四国八十八箇所(さがみのくにじゅんしこくはちじゅうはっかしょ)は、神奈川県藤沢市、鎌倉市、茅ヶ崎市、高座郡寒川町、横浜市泉区にある88か所の札所によって構成される四国八十八箇所の写し霊場[1]。札所には高さ50センチメートルほどの弘法大師石像が祀られている[2]。

歴史
相模国高座郡鵠沼村の浅場太郎右衛門の父は、下総国相馬郡を旅した折に、老若男女が八十八ヶ所霊場[注 1]を巡拝しているのを見て相模国にも霊場を作ることを思い立つ。父は文化2年(1805年)に死去し、子の浅場太郎右衛門は普門寺住職の善応に霊場開設の相談をする[注 2]。文化14年(1817年)に善応は弟子で大東観音堂庵主の浄心を四国に送り、八十八箇所霊場の砂を持ち帰らせる[5]。79番の大東観音堂跡には、「百番供養塔 四国八十八ヶ所 干時文化十四丁丑孟冬建之 願主浄心」と刻まれた石塔が残されている[6]。
文政3年(1820年)から翌年にかけて大師石像が作られ[5]、霊場の砂を埋めた上に安置された[7]。石像の台石には年号の刻まれたものがあり、文政3年が20基、文政4年が9基である[6]。この頃に霊場がほぼ完成したと考えられる[3]。宗派別の札所数は、真言宗46か所、曹洞宗12か所、浄土宗10か所、その他17か所であった[8]。文政5年(1822年)には普門寺によって「相模国準四国八十八箇所」が上梓されている[9]。
文政10年(1827年)3月には総高2.23メートルの光明真言供養塔が講中によって普門寺に造立される。塔身の全面には「南無大師遍照金剛」「准四國八十八 箇所供養塔」などが刻まれ、右側面には浅場太郎右衛門の撰文による準四国八十八箇所霊場の由緒が刻まれている。同年8月に浅場太郎右衛門は死去する。感応院の霊名簿には「鵠沼村堀川浅場太郎右衛門事 八十八箇所建立之発願主也」と記されている[10]。
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札所
要約
視点
札所は藤沢市に41か所、鎌倉市に12か所、茅ヶ崎市に24か所、高座郡寒川町に10か所、横浜市泉区に1か所ある[1]。開設時と現在の札所は以下の通り[11][12][13][14]。
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ギャラリー
脚注
参考文献
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