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鵠沼村
日本の神奈川県高座郡にあった村 ウィキペディアから
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鵠沼村(くげぬまむら)は、神奈川県の中央南部、高座郡に属していた村。
地理
東は境川を境に鎌倉郡川口村と接し、西は引地川を境に明治村と接する。
北辺は東海道とそこから分かれた鎌倉道で藤沢大坂町と接し、南は相模湾の海岸線である。
海岸平野の湘南砂丘地帯にあたり、全般に砂地で北西部では東西方向、中央部では北東-南西方向、東部では東西方向の顕著な砂丘列が見られ、海岸部には海岸線に平行する砂丘列が見られた。
集落・耕地は北西部に限られ、南東部は広大な砂原が展開していた。ここは、相州炮術調練場(鉄炮場)の跡地であり、耕作が禁止されていたためである。
北西部の集落は平安時代末期以来の伝統を持つ宮ノ前、上村(かむら)、宿庭(しゅくにわ)、清水、苅田、大東、仲東、原、堀川の9町内に分かれ、皇大神宮の氏子集落として、「本村」と呼ばれてきた。鎌倉時代には境川の渡津集落として東部に砥上(石上)が形成され、江戸時代初期、東海道が整備されると、街村の引地、車田が形成された。江戸時代中期には中央部に新田が開発され、新田、納屋(なんや)の集落が形成された。明治時代前期の鵠沼村では、これら14の集落のみであった。
産業は自給的な半農半漁であり、鉄道開通を機に商業的な農業も始まった。代表的な作物にモモとサツマイモが挙げられる。養蚕業も若干見られたが、あまり盛んではなかった。1895年には若尾幾造が鵠沼村石上に盛進社若尾製糸場を始業した。釜数=200、当時藤沢地域では最大の工場だった。
鉄道開通を機に海岸部の開発が始まった。鵠沼海岸海水浴場の開設と3軒の旅館の開設である。砂原に道路網が敷設され、クロマツが植栽されて、日本初の別荘分譲地「鵠沼海岸別荘地」の開発も始まったが、本格化したのは江之島電氣鐵道開通後である。
明治時代初期の戸数は300弱、人口は2,000弱であり、1902年になっても370戸、2,830人という数字が記録されている程度であった。
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歴史
要約
視点
→「鵠沼」も参照
元来は砂地の原野で、「砥上ヶ原」の名で知られた。弥生時代以来の遺跡が見られ、奈良時代の記録には高座郡(たかくらごおり)土甘(とかみ)郷と出てくる。平安時代末期以来大庭御厨鵠沼郷と呼ばれ、鵠沼村の名は安土桃山時代の1559年、岩本太郎左衛門定次(北条家御馬廻役)知行地となった段階から用いられたようである。江戸時代は藤沢宿代官支配下の幕領と旗本の布施家、大橋家(2代のみ)の知行地、および寺領に分けられた。村落は自給的な半農半漁村であったが、1694年以来東海道藤沢宿の助郷村、1728年に開設された相州炮術調練場(鉄炮場)を支える村としての役割も担わされた。
沿革
町村制施行前
- 1872年(明治5年)7月12日 - 鵠沼学舎(後の鵠沼小学校)、鵠沼普門寺脇の寺の物置を校舎に開設。
- 1873年(明治6年)5月1日 - 区・番組制施行、鵠沼村は第17大区・第2小区となる。小字・番地の制定。
- 1874年(明治7年)7月6日 - 区番組制を改め大小区制を実施する。鵠沼村は第18大区第2小区。
- 1877年(明治10年)5月22日 - 鵠沼学舎、校舎が新築され、第87番小学鵠沼学校と改称。
- 1878年(明治11年)12月1日 - 神奈川県、大小区制廃止。鵠沼村となる。
- 1884年(明治17年)5月7日 - 郡区町村編制法の改正。鵠沼村は羽鳥、大庭、稲荷、辻堂と連合。
- 1886年(明治19年)7月18日 - 鵠沼海岸で海水浴場開場式開催。提唱者の三留栄三医師、飲酒後泳いで溺死。
- 1887年(明治20年)7月11日 - 鵠沼村中央部を横断して鉄道(後の東海道本線)、横浜-国府津間開通、藤沢停車場開業
町村制施行後
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経済
- 農業
地域
教育
- 尋常高等鵠沼小学校(現在の藤沢市立鵠沼小学校)
交通
鉄道路線
隣接市町村へは、江之島電氣鐵道にて藤沢大坂町および川口村へ連絡する。
道路
名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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