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真鍋斌
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真鍋 斌(まなべ あきら/さかり、1851年3月7日(嘉永4年2月5日) - 1918年12月14日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。貴族院議員、男爵。幼名・熊槌。
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経歴
長州藩中士・真鍋安信の長男として生まれる。明倫館で学び、1866年、干城隊に入隊。1870年、大坂兵部省屯所に入営し、1871年、陸軍青年学舎を卒業。陸軍教導団出仕を経て、1872年、陸軍少尉任官。以後、陸軍兵学寮付、陸軍省第1局第3課などを経て、1877年4月から10月まで西南戦争に出征した。
陸軍省第1局第3課長心得、総務局武学課長、同局第3課長心得、同課長、歩兵第3連隊長、第1軍事課長、第4師団参謀長、第1軍事課長、総務局人事課長などを歴任し、1897年7月、陸軍少将に進級。1900年7月から10月まで義和団の乱に歩兵第9旅団長として出征した。その際、清国の馬蹄銀を横領した嫌疑が明るみとなり、1902年6月に休職となった(馬蹄銀事件)。将来の陸軍大臣とも嘱望されていたが、その道は馬蹄銀事件により閉ざされた。1904年4月、留守第5師団長を経て、1905年2月、陸軍中将となり翌年7月に休職、1907年11月13日、予備役に編入された[1]。1914年4月1日、後備役となる[2]。1918年4月1日に退役した[3]。
1907年9月、男爵を叙爵し華族となり、貴族院議員(1911年7月10日[4] - 1918年7月9日[5])、陸軍参政官(1915年7月 - 1916年10月)を歴任。
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栄典
- 位階
- 1886年(明治19年)7月8日 - 正六位[6]
- 1891年(明治24年)12月28日 - 従五位[7]
- 1897年(明治30年)2月10日 - 正五位[8]
- 1902年(明治35年)3月31日 - 従四位[9]
- 1907年(明治40年)12月10日 - 正四位[10]
- 1916年(大正5年)12月20日 - 従三位[11]
- 1918年(大正7年)12月14日 - 正三位[12]
- 勲章等
- 1884年(明治17年)11月13日 - 勲四等旭日小綬章[13]
- 1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[14]
- 1892年(明治25年)11月29日 - 勲三等瑞宝章[15]
- 1895年(明治28年)
- 1901年(明治34年)7月19日 - 功三級金鵄勲章・勲二等旭日重光章[18]
- 1902年(明治35年)5月10日 - 明治三十三年従軍記章[19]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲一等旭日大綬章・功二級金鵄勲章・明治三十七八年従軍記章[20]
- 1907年(明治40年)9月21日 - 男爵 [21]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[22]
- 外国勲章佩用允許
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親族
脚注
参考文献
関連項目
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