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矢延平六
日本の土木技術家 (1610-1685) ウィキペディアから
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矢延 平六(やのべ へいろく、慶長15年(1610年) - 貞享2年7月1日(1685年7月31日))は、日本の江戸時代に、主に讃岐国(現・香川県)で活動した土木技術家。現在の高松市に上水道を敷設したといわれ、讃岐国に数多くのため池を築いた[1]。名を叶次(やすつぐ)[2]、可次ともいう。
地元では水の恩人と讃えられ、新池では新池神社、仁池では、飛渡神社などに祭られ、高松市香川町浅野のひょうげ祭りの祭神となっている。
生涯
1610年(慶長15年)に生まれる。出生地は不明である。1642年(寛永19年)、下館藩主であった松平頼重が、讃岐高松藩に転封になった時、藩主に従って高松に転入したとされる。1644年(寛永21年)、高松城下に、神田上水に続く日本で2番目の上水道施設を作る[3]。
1646年(正保3年)に白鳥(現・東かがわ市)に宮奥池(みやおくいけ)[4]を、1649年(慶安2年)には、現在の丸亀市飯山町法軍寺に、仁池(にいけ)を造る。しかし、必要以上の大きい池を作ったとの罪を着せられ、阿波国へ追放される[5][6]。
1664年(寛文4年)近女と結婚した。この年高松藩に戻る。しかし、1669年(寛文9年)、現在の高松市香川町浅野に新池(しんいけ)を造成した際に、高松城を水攻めにするという讒言(ざんげん)で、罪人として再度阿波国に追放された[7]。この間、現在の徳島県美馬市に坊僧池(ぼうそういけ)を造る[8][9]。
1679年(延宝7年)、高松藩に復職した。1682年(天和2年)、現在のまんのう町、土器川横に滝の鼻掛井出(たきのはなかけいで)を造る[10]。1683年(天和3年)、高松藩を辞する。
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その他
脚注
参考文献
外部リンク
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