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矢野清

日本の野球選手 (1940-2014) ウィキペディアから

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矢野 清(やの きよし、1940年7月3日 - 2014年11月20日)は、愛媛県出身のプロ野球選手外野手)。

概要 基本情報, 国籍 ...

経歴

選手時代

愛媛・八幡浜高校では1958年夏の甲子園中堅手として出場。1回戦で清水東高に敗退。

1959年阪急ブレーブスに入団。長距離打者として期待され、1962年には外野手として18試合に先発出場。7月1日には四番打者としても起用された。翌1963年も28試合に先発するが、打撃面で低迷が続き出場機会が減少。1967年オフには自由契約選手の候補となる。しかし1968年は6月から先発として起用され、右翼手、四番打者に定着。規定打席には達しなかったが打率.301、本塁打27本の好成績をあげ、「10年目の新人」と呼ばれた[1]1969年も25本の本塁打を放ち、オールスターゲームにも初出場を果たすが、他チームからの研究が進むにつれて不振に陥り、8月中旬には四番打者を外れる。同年は打率.194に終わったが、25本塁打のうちパ・リーグ最多となるサヨナラ本塁打を3本放ち、チームの3連覇に貢献した[2]。翌1970年は5月に腱鞘炎を発症、その後も打撃低迷から抜け出せず同年限りで引退。

最終戦でサヨナラ本塁打

1968年10月11日阪急西宮球場で行われた対東京オリオンズ最終戦(この年の阪急の公式戦最終試合)では、1-2で1点リードされた9回裏無死一塁の場面で成田文男から同点適時打を放ち、2-2の延長11回裏には成田から左翼席最前列にサヨナラ本塁打を放った[1]。阪急はこの試合開始前の時点で南海ホークスと同率首位(79勝50敗、勝率.612)で並んでいた。南海も同日の日生球場での対近鉄バファローズ最終戦が公式戦最終試合であり、阪急・南海両チームの結果が同じだった場合プレーオフが行われる可能性があったが、西宮の試合終了から8分後に南海が敗れたため阪急がパ・リーグ2連覇を達成した[3]。翌12日から始まった巨人との日本シリーズ第1戦は阪急が勝ち、3回に金田正一から逆転本塁打を放った矢野が賞金10万円を獲得した[1]。シリーズ全6試合のうち5試合に四番打者として起用されるが、通算21打数2安打に終わりチーム日本一はならなかった。

引退後

引退後は阪急・オリックスでスカウトを務め、2000年10月にオリックス・ブルーウェーブ(当時)の球団本部長に就任[4]同年のドラフトで、オリックスは巨人入りを熱望していた敦賀気比高内海哲也を1位で強行指名したが、内海は入団を拒否。交渉にあたった矢野は「意志は固かった。交渉にならなかった。巨人に行きたいばっかりで…。社会人入りを止める方法はない。1位という評価をもう少し真剣に考えてほしかった」と獲得断念を表明した[5]

2014年11月20日死去[6]。74歳没。

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詳細情報

年度別打撃成績

さらに見る 年 度, 球団 ...

記録

背番号

  • 52 (1959年 - 1962年)
  • 23 (1963年 - 1970年)
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脚注

関連項目

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