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石母田宗頼
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石母田 宗頼(いしもだ むねより)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。仙台藩重臣。
生涯
天正12年(1584年)、朝倉氏旧臣・高能正親の二男として越前国に生まれる。
はじめ母方の浦山姓を称して浦山景綱と名乗り、北ノ庄城主・小早川秀秋に仕官したが、慶長4年(1599年)に秀秋が旧領の筑前名島城に復帰すると、小早川家を離れて伊達政宗に仕官し、伊達家重臣・石母田景頼の娘婿に迎えられる[1]。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際には白石城奪還作戦に参加している。
慶長6年(1601年)、景頼が桑折氏の番代となって石母田家を離れると、石母田家の家督を相続し、登米郡米谷城2,000石を継いだ。元和元年(1615年)には奉行職(他藩の家老に相当)に就任、大坂の陣の軍功により、翌元和2年(1616年)には4,000石に加増され胆沢郡水沢城主となり、寛永5年(1628年)には栗原郡岩ヶ崎城主となって5,400石まで加増されている。
寛永13年(1636年)に政宗が死去した際には殉死を願い出たが、将軍徳川家光の上意により差止められた[2]。政宗の跡を継いだ第2代藩主・伊達忠宗の下でも引き続き奉行職を務め、寛永総検地後には6,500石にまで加増されている。
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系譜
- 父:高能正親
- 母:浦山秋元の娘
- 養父:石母田景頼
- 養子:女子 - 兄・長助の娘。中村康時室
脚注
参考文献
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