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秋月種賀
日本の江戸時代後期の武士。日向高鍋藩家老上席秋月種懐(高鍋藩6代藩主秋月種美七男で、新小路秋月氏初代当主)の子で、江戸幕府旗本秋月種備婿養子。旗本秋月氏8代当主 ウィキペディアから
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秋月 種賀(あきづき たねよし)は、江戸時代中期から後期にかけての旗本寄合席。通称は大学。高鍋藩主秋月家分家の旗本寄合席木脇領主秋月家8代当主。石高は日向国諸県郡、宮崎郡内3,000石。屋敷は本所林町。幕職として本所深川火事場見廻役や新番頭、小普請組支配などを勤める。
生涯
秋月種懐(本宗家で高鍋藩主秋月種美の七男)の子として誕生。幼名は安太郎。父種懐は分家して高鍋藩連枝の1つ新小路秋月家の初代となり、安永8年(1779年)に高鍋藩の家老上席[2]を勤めている。
寛政5年7月11日(1793年8月17日)に従兄で旗本寄合席の種備が死去したために、公称17歳で婿養子としてその家督を継ぎ、寛政9年12月22日(1798年)に徳川家斉へ初めて御目見を済ませる。享和元年(1801年)刊行の須原屋茂兵衛蔵版武鑑の御寄合衆に「三千石 秋月大学」とある。
文化6年6月18日(1809年)[3]に本所深川火事場見廻役となる。須原屋茂兵衛蔵版武鑑では文化7年(1810年)刊行分から本所深川火事場見廻役として掲載されており、本所深川火事場見廻に「秋月大学 父式部 三千石 文化六巳六月ヨリ △本所はやし丁」とある。
文化8年(1811年)には寄合肝煎へ転じる。文化14年(1817年)に新番頭に就任し、文政2年11月24日(1820年)に小普請組支配となり、翌文政3年12月21日(1821年)に小普請組支配を辞職した。
家督は子の種博が相続する。
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系譜
脚注
参考文献
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