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空軍軍官学校
中華民国の空軍士官学校 ウィキペディアから
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空軍軍官学校(くうぐんぐんかんがっこう、R.O.C. Air Force Academy)は、台湾高雄市岡山区に位置する、空軍士官を養成するための中華民国空軍の教育機関(空軍士官学校)。略称は空軍官校。
沿革
要約
視点
孫文率いる広州の中華民国護法軍政府は、軍閥を殲滅し中華統一を果たすべく、華僑の協力を得て、日本に中華革命党航空学校(1915年)、アメリカに美州航空学校(1916年)や図強飛行機公司(1919年)、カナダに中国強華飛行機学校(1919年)等の航空教育の環境が整った海外に華僑の飛行学校を建設していた。1921年、孫文は62項目からなる「国防計画」を策定、うち9項目に航空隊の刷新を盛り込み、「航空救国」の号令の下、自国での航空学校の建設を命じた[1]。中華民国陸海軍大元帥大本営時代の1924年7月[2] (1924年1月とも[3])、前年度より飛機廠として利用されていた東山新河浦の革製品工場跡[4]に広東軍事飛機学校(のち広東航空学校と改称、大沙頭飛行場に移転)を開設、校長はドイツ人軍事顧問の「グラン・ヤルタ」(格蘭雅爾台)[5]であったが、間もなくソ連軍人の「李糜」(本名ダウィド・ウゲル[6])となり、ソ連式訓練が実施された。ただし、立地の狭い大沙頭飛行場では満足な訓練が出来ず、ソ連の第2航空学校などに留学せざるを得なかった。
現在の空軍軍官学校は1928年10月10日に南京の中央軍官学校に設置された航空隊を元とする。同隊は組織の発展に伴い「航空班」「軍政部航空学校」と改名を重ね、1932年9月1日に「中央航空学校」として杭州筧橋に開校、正式に空軍の士官学校となった。開校にあたり、蔣介石は招聘した元陸軍大佐ジョン・ジュエットらアメリカ顧問団に大幅な権限を付与させ、ランドルフ飛行学校をベースとしたアメリカ式教練を導入した。
まず、ジュエットらは新生パイロットの教育と並行して、玉石混淆だった既存パイロットの技術を確かめるべく航空学校と空軍部隊の飛行人員を対象に飛行試験と身体検査を実施した[7]。その結果、全体のうち体格標準不適格者の40パーセントを含む75~85パーセントものパイロットが飛行技術が不合格となり、飛行資格を失ったという[8]。不合格者の大半は排除されたが、残った者の一部は偵炸班に編入され、爆撃・偵察要員としての訓練を受けた。そして残りは高級班に編入され厳格な飛行技術の改良を受けた[7]。そのため、初期の飛行教官の大部分は高級班の学生であった[7]。ジュエットの厳格な基準に基づいて選定された11人の飛行教官は、劉超(東北航校)、高志航(東北航校)、李俊徳(航空班)、王天祥(航空班)、陳嘉尚(航空班)、陳棲霞(雲南航校1期)、胡家枚(米留学)、崔滄石(保定航校)、石友信(ソ連留学)、徐縉琠(日本留学)、王叔銘(広東航校1期、ソ連留学)であった[9]。
しかしジュエットが剿共や反蔣系勢力の掃討に消極的だったことや、日米関係の問題から1934年12月に帰国[10][8]。代わってシルヴィオ・スカロニ少将、ロベルト・ローディ准将ら150名からなるイタリア軍事顧問団を招聘し、イタリア式教練をベースとする洛陽分校を1936年に開校した。しかし、ジュエットとは対照的にスカロニらの審査基準は低く、再び中国空軍のパイロットは玉石混淆へと逆戻りしてしまった[11]。こうした状況は、のちにクレア・リー・シェンノートからも痛烈に批判されている[12]。
それでも、日中戦争勃発後には数多くのエースパイロットが生まれ、大戦全期に渡って日本陸海軍航空隊に対し善戦した。
1937年の杭州陥落に伴い、雲南省昆明、次いでインドのラホールに移転。なお1938年に現在の校名となる。一方筧橋の敷地は日本軍に接収され、731部隊の部隊員で臨時編成された「奈良部隊」の細菌戦拠点として利用された事もあった[13]。
1938年4月、空軍の各学校の校長は蔣介石が兼任したため、新たに特設された教育長が校務を取り仕切った[14]。
1943年2月、初級班の学生は全てラホールに移送され、それ以後の各期学生は昆明で短期の地面教育、インドで初級訓練、アメリカで中高級訓練を受けた[15]。
戦後は再び筧橋に移転するも国共内戦の影響で遷台し、現在に至る。 2003年に大幅な教育改正がなされ、一般大学を手本としたカリキュラムが組まれた。2011年現在、教官41名、学生610名。
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アクセス
教育目標
- 軍人としての気風を作り上げ、武徳・武芸を陶冶し、国防を担うという責任と誇りを培う。
- 運用系統性における課程設計等、一般大学で求められるものと同様の基礎知識を習得させる。
- 計画的な「体適能」の訓練課程により、強靭な精神と肉体を生み、揺ぎ無い決心と気力を培う。
- 校内における規律の取れた団体生活を送ることで、部隊でのチームワークと誇りを培い、軍へのアイディンティティーと忠誠心、軍紀遵守を確立させる。
理念
一、提倡全人教育,培育術德兼修人才。
二、兼顧理論實務,奠定航空專業地位。
三、推展策略聯盟,落實終身學習管道。
四、符合部隊需求,培育優質建軍幹部。
カリキュラム
本学での教育は、一般大学での理工科系教育に相当し、全学年4年間にて最低でも130個分の単位を修得する。一年生では教養基礎過程として理工クラスと社会クラスに分けられ、2年生に進級後、理工クラスの者は航空宇宙学科、航空電気学科、航空機械学科のいずれかに、社会クラスの者は航空管制学科に編入される。卒業する事で、工学士および管理学士の資格と空軍少尉の階級が授与される。
空中勤務体力検査に合格した学生は、卒業後、飛行訓練が実施される。
これに不適格となった生徒は、主に司令部での航空機械、通信電子、防空作戦担当などへ進むこととなり、空軍航空技術学校、陸軍砲兵飛弾学校に進学し分科教育を受ける。
合格した生徒は、基本航空理論課程、軍事課程といった専門教育および飛行訓練を97週間(一般大学出身者は105週間)にわたって受け、卒業後少尉任官となる。
組織

一般教学部
- 航空宇宙学科
- 航空電気学科
- 航空機械学科
- 航空管制学科
通識教育中心
- 数理組
- 外文組
- 社科組
歴史



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職階
- 校長 空軍少将(2006年、中将から変更)
- 副校長 空軍少将
- 教育長 空軍上校
- 政戦主任 空軍上校
- 飛行指揮部指揮官(副校長兼任) 空軍少将
歴代校長
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キャンパス
キャンパス内には格納庫をはじめとした飛行訓練用施設のほか、プール、陸上競技場、テニスコートといった施設も完備されている。また、校門横には空軍の歴史資料館である空軍軍史館がある。
キャンパスの施設には名前の付いたものがあり、「仙逸樓」「中正堂」「志航樓」(黎明期のパイロット楊仙逸、蔣介石、日中戦争初期のエース高志航に因む)、生徒たちの営舎として「海文樓」「粋剛樓」「志開樓」「崇誨樓」(それぞれ日中戦争の英雄閻海文・周志開・劉粋剛・沈崇誨に因む)の4棟などがある。
- 校門と空軍軍史館
- 仙逸樓
- 中正堂
- 志航樓
- 体育館
- 陸上競技場
- 第十一修補大隊隊部
- 飛行士の像。「筧橋を忘れるな」の文字が刻まれている
スポーツ・サークル・伝統
士官学校でありながらも、活発な生活方式を送ることは学生生活において不可欠であるとし、計20の學生社團(サークル)の設立を容認している。以下「体能性」「康楽性」「技芸性」の3種類に分類される。
主な出身者
要約
視点
戦死者は一階級特進後の階級を表記する。
中央航空学校
1期
- 1929年3月1日入学、1931年3月19日卒業、97名。うち戦死・事故死21名
2期
- 1932年9月1日入学、1934年2月1日卒業、航空班48名、偵察班30名。うち戦死・事故死18名
3期
- 1933年9月1日入学、1934年12月30日卒業、61名。うち戦死・事故死27名
4期
(1933年3月1日入学、1935年6月1日卒業[23]。55名、うち戦死・事故死26名)
- 中将:蔣紹禹
- 上校:陳盛馨(戦死)
- 少将:王曦、劉為城
5期
(第1班:1934年9月1日入学、1936年1月20日卒業、第2班:1935年5月1日入学、1936年10月16日卒業、計158名、うち戦死・事故死55名[24])
- 中将:蔡名永・衣復恩
- 少将:張光明、呉超塵
- 少校:徐葆畇(戦死)
- 中尉:陳錫純(戦死)
6期
(第1班:1935年5月1日入学、1936年(民國二十五年)10月16日卒業、1937年(民國二十六年)4月少尉任官。計104名。第2班:1935年5月1日入学、1937年(民國二十六年)5月1日卒業、計111名。うち戦死・事故死69名)
空軍軍官学校
7期
(1936年3月3日入学、1938年(民國二十七年)2月26日卒業、計153名。うち戦死・事故死38名)
8期
(1936年9月1日入学、1938年(民國二十七年)12月1日卒業、計147名[26]。うち戦死38名)
- 二級上将:烏鉞
- 少校:高又新、翁心翰
- 上尉:劉善本(人民解放軍空軍少将)
9期
(1937年3月30日入学、1939年(民國二十八年)7月1日卒業、計168名。うち戦死・事故死38名)
- 少将:陳康
- 上校:王光復・譚鯤・陳鍾琇
10期
(1938年(民國二十七年)1月1日入学、1940年(民國二十九年)3月10日卒業[26]、125名、うち戦死・事故死34名)
- 少将:臧錫蘭・喬無遏
11期
(1938年(民國二十七年)6月1日入学、1940年(民國二十九年)2月10日卒業[26]、計81名。特班:1938年10月1日入学、1940年(民國二十九年)4月25日卒業、計108名。うち戦死・事故死22名)
- 少校:呉其軺
- 中尉:鄭海澄
12期
(1939年(民國二十七年)7月13日入学、1941年(民國三十年)2月10日卒業、103名。特班:1939年9月1日入学、1942年(民國三十一年)3月1日卒業[26]、105名、うち戦死・事故死42名)
- 中将:張汝誠、張麟徳
- 上尉:邢海帆(のち中共に転向)
13期
(本校:1940年(民國二十九年)11月1日入学、1942年(民国三十二年)6月15日卒業、65名、うち戦死・事故死18名、特班:1940年2月1日入学、1942年12月30日卒業[26]、83名)
14期
(1940年(民國二十九年)2月1日入学、1942年(民国三十二年)9月10日卒業、70名、うち戦死・事故死28名)
- 二級上将:郭汝霖
- 上校:夏功権
15期
(1941年(民國三十年)12月1日入学、1943年(民国三十二年)5月20日卒業、117名、うち戦死・事故死24名)
- 中尉?:兪揚和
16期
(卒業120名、うち戦死・事故死24名)
- 中尉:竺培風(事故死)
- 少尉:金元英(事故死)
18期
(1945年(民國三十四年)4月15日卒業[26]、150名)
- 一級上将:陳燊齢
- 少将:冷培樹、張済英
23期
- 中将:唐積敏
24期
- 少尉:金信
26期
- 二級上将:華錫鈞、趙知遠
28期
- 上校:陳懐生(戦死)
29期
- 二級上将:林文礼
- 少校:王兆湘(事故死)
32期
- 一級上将:唐飛
- 上校:欧陽漪棻
40期
- 二級上将:黄顕栄
43期
- 二級上将:夏瀛洲・陳肇敏
44期
- 少校:蔡冠倫
46期
51期
1970年卒業
- 二級上将:沈国禎[29]
52期
- 二級上将:厳明、彭勝竹
54期
1973年卒業
- 二級上将:雷玉其
- 少将:伍克振(殉職)
56期
1975年卒業
- 少将:唐斉中
57期
1976年卒業
- 中校:林賢順(大陸に亡命、現在解放軍空軍大校)
58期
1977年卒業
- 中将:葛広明、田在勱
60期
1979年卒業
- 二級上将:呉万教、沈一鳴
- 少将:柯文安
61期
- 少将:朱玉志
63期
- 少将:張延廷
飛行専業軍官班
3期
(1995年卒業)
- 中校:陳君宜
主な教員
初期の航空隊および航空班時代は、飛行訓練を担当する飛行教官の多くが北洋軍閥下で運営されていた南苑航空学校、東北航空学校、保定航空学校の出身者だった[7]。教官には卒業生の中でも特に優秀な人物が選ばれた。日中戦争でエースとなった搭乗員の多くが教官としての経験をしている。
一方、政治教官にはCC系人材と黄埔系(藍衣系)人材いずれを登用するかでしばし抗争があったとされる。[30]
航空班
中央航空学校
太字はジュエットの審査基準を突破した者。
- 曹文炳:教育処副処長兼飛行科長[31]
- 李瑞彬:管理科長[32]
- 劉超:飛行初級組長[33]
- 王星垣:飛行中級組長[34]
- 張遠北:駆逐組長[35]
- 石友信:轟炸組長[36]
- 陳嘉尚:偵察組長[37]
- 徐縉琠:飛行教官[38]
- 銭国勲:飛行教官[39]
- 王叔銘:飛行教官、1934年10月離職[40]
- 王天祥:飛行教官、1934年10月離職[41]
- 高志航:飛行教官、1934年10月離職[42]
- 邢剷非:飛行教官、1934年10月離職[43]
- 陳棲霞:飛行教官、1935年4月離職[44]
- 崔滄石:飛行教官、1935年4月離職[45]
- 金世中:教官、1935年6月離職[46]
- 石邦藩:保定航校1期、入伍生隊隊長(1933)
- 李桂丹:第2期、飛行教官、駆逐組組長
- 楽以琴:第3期、飛行教官
- 羅霞天:政治総教官、政治訓練処教官(1933)
- 張韶舞:政治総教官
- 楊亜峰:教官
関連施設
関連項目
- 空軍幼年学校
- 空軍航空技術学院
脚注
参考文献
外部リンク
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