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篠沢恭助

日本の官僚 ウィキペディアから

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篠沢 恭助(しのざわ きょうすけ[1]1937年昭和12年)3月1日[2] - )は、日本官僚。元大蔵事務次官

来歴

東京教育大学附属中学校・高等学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)、東京大学法学部第二類(公法コース)卒業後、大蔵省入省(為替局総務課)。

当時の事務次官候補の異動としては珍しく、大臣官房文書課長秘書課長地方支分部局の局長などを経ずに主計局総務課長から、いきなり同局の末席次長に抜擢された[注 1]。同期の千野忠男主計官補佐主査)、主計局総務課企画官、主計官、文書課長、近畿財務局長を経験していたが、他の同期より年齢が上で、主計局長→事務次官の順番待ちの最中に定年の壁に引っかかるため、篠沢を主計コースとし、千野を財務官となる国際金融コースへと変更した[3]。その後は大臣官房総務審議官理財局長。篠沢が理財局長時に千野が上記の定年の壁にぶつかり、1991年平成3年)6月に篠沢は大臣官房長となった[4][注 2]1993年(平成5年)6月に主計局長。1995年(平成7年)5月 大蔵事務次官に就任。斎藤次郎が任期を2ヶ月残して辞任した後を受けて事務次官に就任したが、中島義雄田谷廣明ら主計局幹部による過剰接待問題や、大和銀行ニューヨーク支店巨額損失事件における銀行局西村吉正局長)と国際金融局榊原英資局長)の米国側への通報が遅れた事で問題とされた件、住専国会を経て住専への公的資金投入など、これら一連の「大蔵スキャンダル」でマスコミや政界、国民などの大きな反発を受けていたため、歴代の大蔵事務次官では最短となる在任7ヶ月での辞任となった(但し、のちに小村武が事務次官在任6ヶ月で辞任した)。

1996年(平成8年)に退官し、その後1998年(平成10年)海外経済協力基金総裁、1999年(平成11年)国際協力銀行副総裁、2001年(平成13年)国際協力銀行総裁を歴任し、同総裁退任後、2008年(平成20年)から資本市場研究会理事長を務める。

亀井静香とは東大時代の同級生でツーカーの仲で有名とされていた[7]

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略歴

要約
視点

現在は、一般財団法人生涯学習開発財団評議員を務める[14]

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入省同期

脚注

関連項目

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