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紫微斗数

中国で生まれた占いの一種 ウィキペディアから

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紫微斗数(しびとすう、ZiWei DouShu)は、占いの一種。太陰太陽暦をもとに、個人の特性や巡ってくる運勢を占う[1][2][3]。主に生まれた年月日と時間を基にしており、いわゆる命占術の一つ[4][注 1]。いくつかの流派に分かれ、いずれも嘉靖29年(1550年)に出版された『紫微斗数全書』を原典として、その上に独自の解釈を加えている[5]

本項の紫微斗数は「南派紫微斗数」[9]と呼んで、北派紫微斗数[注 2]と呼ばれる占術と区別する場合がある。両者は名前こそ〈紫微斗数〉の部分を共有していても、技術体系が全く異なる[要出典]。また一部には前半部分の「微」を草冠のある「薇」[注 3]と表記する流派がある。

英語圏でも普及が始まり、紫微斗数の中国語読みを音写した「ZiWei DouShu」や、紫微星をもじった「英語: Purple Star Astrology[12](紫の星の占星術)とも呼ばれている。

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概要

紫微斗数とは、紫微星つまり北極星太一天皇大帝[注 4]を中心に、星々から運命()を量る枡(ます=)を意味する。

五代時代の麻衣仙人が末からの時代の陳希夷(陳摶 885年?-989年?[14])という著名な仙人に、方位学の資料として神異賦[要説明]の書物と一緒に渡したことが始まりとされる。陳摶は麻衣仙人の弟子ではない点、人為的に命術に変えたとされる点から、占いとしては破綻している。[独自研究?]

中国[2]台湾[1][12]でよく知られており、子平(四柱推命の八字)と併用されることもある。日本ではあまり広まってこなかったが、最近[いつ?]は徐々に知られるようになった。もっとも、日本において徳川幕府の蔵書にある点[15]第二次大戦以前から阿部泰山[誰?]が紫微斗数の講習を行っており、これは香港や台湾における紫微斗数の流行に先駆けて[いつ?]いる。

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起源

『紫微斗数全書』の著者とされる羅洪先(1504年1564年)は、陳希夷18代の子孫から紫微斗数の解説書を伝授されたとしている。

占術の基本となる配置は異なるが、十二宮という西洋占星術の〈ハウス〉と同じ概念の「宮」に、暦から算出される星を配置し、その星の吉凶象意から占う。星の配置にあたっては、天体の実際の位置は考慮されない[注 5]

象意と実在の天体

この占術で着目する星は100個を超え、流派によって使用する星の数こそ異なるが、それらの星は重要度を基準に分類される。また重要度が高いほど実在する天体すなわち起源と名称が同じである[要出典]

紫微斗数では特に北斗七星南斗六星が重要視されており、特に重視される甲級星の大多数はこの2つの星座に起源を持っている。甲級星と実際の星の対応を以下に示す。

さらに見る 星座, 天体 ...

北斗七星と南斗六星、中天を合わせて14星が甲級主星と呼ばれており、紫微斗数では最も重要な働きをする。特に吉凶の判断と「どのような」象意か告げる判断に用いる。

北斗七星の中で実存の天体の等級が低い2星は禄存文曲と呼ばれ、甲級ではあっても輔星である。

なお、北斗七星がかたどる柄杓(ひしゃく)の柄を構成する廉貞武曲破軍の3星は「死の使い」とされたが、これら3星は紫微斗数においても軍事との関わりがあるとされ、破軍は特にその傾向が強い[注 6][要出典]これは紫微斗数が星々の位置を暦から算出して、実在の天体とは無関係としてはいても、同名の天体が帯びる象徴を受け継いでいることの証左となるだろう[独自研究?]

紫微斗数の星々が元の実天体の性質を受け継いでいるという事象は太陽と太陰でより顕著で、例えば太陽は夜明けに対応する卯宮にあるとき品位が最上のとなる。また紫微斗数において太陽の象意は「公明正大」が基本であり、これは西洋占星術等の実際の太陽のそれと共通する。

従って「紫微斗数では実在天体の位置を考慮しないことをもって、紫微斗数で使用する星は『虚星』であって実在しない」などという主張は端的に言って間違いである[要説明]

『封神演義』とのつながり

原典である『紫微斗数全書』には、『封神演義』とのつながりを推測させる記述は一切ない。しかしながら特定の流派で星の性格付けに革命で活躍した人物を当てた影響で、紫微斗数と封神演義に関連があるとする説を見かける。

脚注

関連項目

関連資料

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