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良岑衆樹
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良岑 衆樹(よしみね の もろき)は、平安時代前期の貴族。良岑安世の孫で、左中弁・良岑晨直[1](または農直[2])の次男。従四位上・参議。
経歴
光孝朝から宇多朝にかけて左馬允・近衛将監を務め、この間に東宮主馬首を兼ねて東宮・敦仁親王にも仕える。
寛平9年(897年)7月に敦仁親王が践祚する(醍醐天皇)と衆樹は六位蔵人に補せられるが、まもなく従五位下の叙位を受けて五位蔵人となった。その後、右兵衛佐・近衛少将と武官を歴任する一方で五位蔵人も務めている。延喜10年(910年)従四位下に昇叙されると、延喜11年(911年)右近衛権中将、延喜15年(915年)正月に従四位上と昇進していき、同年8月には蔵人頭(頭中将)に抜擢された。延喜17年(917年)参議に任ぜられて、良岑氏の氏人としては祖父の良岑安世以来87年ぶりに公卿となった。議政官の傍らで治部卿や宮内卿を兼帯している。
逸話
50歳になるまで微官に留まっていた衆樹は、ある時、雨の中苦労して坂を登って石清水八幡宮に参詣した。その際、神社の前に橘の老木が茂っていたの見つけ、この橘の木のように自ら(衆樹)も老いてしまった、との趣旨の和歌を詠んだ。これを聞いた八幡神が哀れんで、その情けにより、橘の木は茂り栄え、衆樹も栄職である蔵人頭に任官されたという(『大鏡』[3])。
官歴
系譜
脚注
参考文献
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