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菅原孝標
平安時代の貴族。従四位上、文章博士、上総介、常陸介、蔵人頭、検非違使。上総国・常陸国の受領。子に基円(安楽寺別当)、娘(1001?-1024)、為広(津戸二郎、母は谷保大夫(武蔵国住 ウィキペディアから
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菅原 孝標(すがわら の たかすえ)は、平安時代中期の貴族。右大臣・菅原道真の玄孫で、右中弁・菅原資忠の子。官位は従四位上・常陸介。『更級日記』の著者である菅原孝標女の実父。
経歴
因幡掾在任中の正暦4年(993年)東宮(居貞親王)昇殿を聴される。蔵人右衛門尉を経て、長保3年(1001年)従五位下に叙爵。
その後は、寛仁元年(1017年)上総介、長元5年(1032年)正五位下・常陸介に叙任されるなど、後一条朝にて受領を歴任。常陸介として赴任した4年後の長元9年(1036年)に帰京した。その後再び、高齢ながらどこかの国司に任命されたらしい。高齢で任国へ赴く父との今生の別れの箇所は、『更級日記』の中でも有名なシーンの一つであるが、実際には無事に生きて戻ってきている。
人物
学問の家に生まれながら、大学頭や文章博士などの学者としての官職には任官しなかったことや、『更級日記』における人物像などから、かつては凡庸な人物とみなされていた。しかし、長保2年(1000年)から長保3年(1001年)にかけての六位蔵人時代の活動の様子が、上司である蔵人頭・藤原行成の日記『権記』に頻出することや、万寿4年(1027年)右大臣・藤原実資の娘である千古の家司に任ぜられていることから[1]、これら経歴を踏まえた人物像の再評価もなされている[2]。
官歴
系譜
脚注
参考文献
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