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菊池菊崖

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菊池 菊崖(きくち きくがい)は幕末の商人。伊勢国白子干鰯問屋小川市兵衛家に生まれ、紀伊国栖原菊池海荘砂糖問屋河内屋孫左衛門店を継承した。

概要 きくち きくがい 菊池 菊崖, 生誕 ...

生涯

伊勢国河曲郡白子村の旧家小川市兵衛の長男として生まれた[1]。幼名は豊次郎[1]。小川家は江戸深川富川町の店舗で干鰯問屋[2]を営んでいたが、嘉永初年父市兵衛が死去し、家業が傾くと、隣に本店を構えていた同業者紀伊国栖原菊池家に拾われ、菊池海荘砂糖問屋新和泉町支店に奉公し、遂に婿入りした[1]

幕末、養父海荘が海防論を唱えて農兵の訓練を行うと、菊崖もその命で武芸を修行したが、番頭垣内晋兵衛・河内嘉兵衛等は海荘の出費を諌め、両者の板挟みとなった[3]幕末の通貨問題による金価高騰に加え[4]、支店は慶応以降の外国糖の流入[5]、本店は漁民への前貸金の不良債権化等により経営難となり、支配人等により経営改革が提案され、本店を継いだ次男晩香、支店を継いだ鉄渓、父海荘とやり取りを重ねたが、明治10年代共に廃業し[6]、債務を整理した[1]

晩年長男鉄渓に家督を譲ったが、先立たれ、家事に復帰した[3]。俳諧と剣の観賞を趣味とし、1899年(明治32年)9月29日病に罹り、10月9日死去した[3]。享年70[3]天王寺墓地の海荘墓域に葬られた[7]

次男晩香は本家を継ぎ、四男は中谷家に入り、長男鉄渓・三男東洲は早世したため、晩香は鉄渓の娘孝を養育し[3]、1906年(明治39年)8月[8]早稲田中学生山本武芳と娶せ、鉄渓の跡を継がせた[3]

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親族

  • 実父:小川市兵衛(伊兵衛[7]
  • 養父:菊池海荘(孫左衛門、保定)
  • 妻:菊池保(やす) - 海荘の娘[9]
  • 長男:菊池鉄渓(孫左衛門、武恒)[3]
  • 次男:菊池晩香(三九郎、武貞) - 早稲田大学教授。
  • 三男:菊池東洲(武虎)[3]
  • 四男:中谷楓渓(藤楠、武藤)[3]

脚注

参考文献

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