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蔣孝武
第12代中華民国駐日代表、蔣経国の次男 ウィキペディアから
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蔣 孝武(しょう こうぶ、1945年〈民国34年〉4月25日 - 1991年〈民国80年〉7月1日)は、中華民国の政治家。蔣経国(第3代総統)・蔣方良夫妻の次男である。字は愛理[1]。
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生涯
要約
視点

日中戦争末期の1945年(民国34年)4月25日、国民政府陪都の重慶にて生まれる[2]。他の兄弟ほどの寵愛を受けることはなかったが、それでも蔣家の一員として丁重に扱われながら育った[3]。
国共内戦末期の1949年(民国38年)、家族と共に上海から台湾へ移住した。蔣孝武は自身が蔣家の一員であることに強く慢心しており、熱心に勉強に取り組むこともなく常に揉め事を起こし続け、中学を卒業する頃にはクラスで最下位の成績となっていた。この状況を見かねた祖父の蔣介石は、蔣孝武を高雄県鳳山の陸軍軍官学校に入学させることにした。
しかし、軍官学校に入学しても蔣孝武の素行は改善しなかった。教官に規律違反を注意されても却って蔣孝武が教官を叱責する有様であり、次第に誰も蔣孝武を咎めなくなっていった。彼は毎日自分の起きたい時間まで寝続け、食事の時も列に並ばずに自分の好きな料理を注文しし、コックに調理してもらっていた。さらに、いつでも学校を出て高雄や台北まで遊びに行くことさえできた。この状況を知った家族は、蔣孝武を蔣家の威光が及ばない海外へ留学させることにした。
1967年(民国56年)、蔣孝武は西ドイツのミュンヘン政治学院に留学し、留学中の休暇で訪れたスイスのジュネーヴにて、国際電気通信連合に勤務してい汪徳官の娘である汪長詩と知り合った。1968年(民国57年)、蔣孝武と汪長詩はアメリカにて結婚式を挙げた。1970年(民国59年)には台湾に帰国し、1972年(民国61年)1月19日に長女の蔣友蘭が、1973年(民国62年)7月23日には長男の蔣友松が生まれた。1975年(民国64年)、蔣孝武と汪長詩は離婚した[3][4]。
1975年6月27日、国軍退除役官兵輔導委員会管轄下の国営企業として栄電股份有限公司が設立され、初代董事長に就任した。その後も1976年(民国65年)には中央広播電台主任、1977年(民国66年)には中華民国広播電視事業協会理事長・中国国民党中央党務顧問・国民党新聞党部常務委員、1980年(民国69年)には中国広播公司総経理と、党や国の様々な職を歴任した[3]。
1977年、蔣友蘭の家庭教師となった台湾人の蔡恵媚と知り合い、やがて交際関係に発展した[3]。
1984年(民国73年)10月15日、アメリカカリフォルニア州在住の作家である江南(本名:劉宜良)が自宅で暗殺される「江南事件」が発生した。FBIの捜査の結果、事件は台湾に拠点を置く暴力団「竹聯幇」のメンバーによる犯行と判明し、国防部情報局が犯行を指示したとされ、局長の汪希苓が逮捕された。この頃、蔣孝武は台湾の情報機構で大きな権力を持っており、竹聯幇の張安楽が「首謀者は蔣孝武だ」と主張したため、蔣孝武に対する疑惑が深まった[注 1]。この疑惑の影響で蔣孝武は失脚し、駐シンガポール商務代表団副代表に任命されて国外に追いやられた[3][7][8]。
1986年(民国75年)、シンガポールにて蔡恵媚と再婚した[3]。
1988年(民国77年)8月8日、駐シンガポール商務代表団代表に昇格した[9]。

1989年(民国78年)に李登輝総統のシンガポール訪問を実現させた功績を評価され、1990年(民国79年)1月9日に亜東関係協会東京弁事処代表(駐日代表)に異動した[10][11]。
2月、李登輝は総統選挙の副総統候補に総統府秘書長の李元簇を指名した。これに反対した滕傑ら一部の国民大会代表(いわゆる「万年議員」)は林洋港(総統候補)・蔣緯国(副総統候補)の擁立を計画した。3月9日、蔣孝武は台湾に帰国して「中国国民党の指導者たちに宛てる手紙」と題する公開書簡を発表した。蔣孝武はこの公開書簡で国民大会と国民党の姿勢を強く批判し、「万年国会」の解散と国民大会代表の全面改選を求めた。また、記者会見では叔父にあたる蔣緯国の副総統立候補を「権力や地位を奪い合い、互いに譲らず、党の理想を無視している」と強く批判した[10][3][12]。
11月12日、東京の皇居で挙行された天皇明仁(現:上皇)の即位礼正殿の儀に出席した[13]。
1991年(民国80年)5月31日、駐日代表を辞任して帰国した。6月30日、中華電視董事長への就任が決定したものの、その夜に長年にわたる糖尿病と高脂血症の影響で体調を崩し、翌7月1日未明に46歳の若さで急死した。死因は「急性心不全」と発表された。7月31日に葬儀が挙行され、李登輝(総統)・李元簇(副総統)・郝柏村(行政院長)などの要人が参列した。蔣家の他の人々と違って蔣孝武は仏教に改宗していたため、葬儀は仏式であった[3][10][14][15][16]。
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家系図
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脚注
関連項目
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