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蕗沢紀志夫

日本の翻訳家 (1901–1981) ウィキペディアから

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蕗沢 紀志夫(ふきざわ きしお、1901年[1][注釈 1] - 1981年[2][3][注釈 2])は、日本の応用化学者、翻訳家。出生名は、蕗沢[注釈 3]喜芳(ふきざわ のぶよし)[4][5]。妻は同じく翻訳家の蕗沢忠枝[6]

来歴

要約
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長野県東筑摩郡芳川村[7]野溝[8](現・松本市[9])出身。東京高等工業学校附設工業教員養成所・応用化学科を卒業した後、学校現場で理科・化学を教えるとともに、30代のころに高名な応用化学者たちとの共著書を著していることから、専門性に秀でた化学者であったとうかがえる。30代の終わりごろ、戦時中に『国策線上の理化教材』を著す中で「理化教育の国策化」[注釈 4]を教育目標に掲げており、当時の皇国教育の立場に立っていた。敗戦後、民主教育の導入に伴う教師たちの思想的転向が一般的であった中で、蕗沢も例外でなかったと考えられる。

「蕗沢紀志夫」[注釈 5]と改名してからの翻訳家活動は50代に始まっていて[注釈 6]、前半生とは異なりまるで別人のようであるが、旧東京工業大学同窓生らで作る蔵前工業会の会員名簿に、蕗沢紀志夫の旧名「喜芳」が併記されていて[4][5]、喜芳と紀志夫が同一人物であることがわかる[注釈 7]。蕗沢紀志夫として手がけた翻訳は、内容においてアメリカ人女性の自立論、ナチスに迫害されたユダヤ人女性の記録のほか、小児マヒの少女の生涯などに渡っており、女性に対して視線が向けられたものが多い[注釈 8]

略歴

有効な生年の検討

次の複数の異なる生年または生年月日を記した資料が存するが、蕗沢本人名義で出版する著作物にある略歴の生年(1901年)が最も確かなものであると考えられる。

  • 1901年とするもの - 《出典》本人名義の翻訳出版『第二の青春――中年男の反抗』にある訳者略歴[1](Web NDL Authorities[2]の生年データもこれを出典とする)。
    1901年生まれの場合、長野師範学校の卒業時年齢が19歳となり、卒業年齢として整合性が認められる。
  • 1898年7月15日とするもの - 《出典》長野県人東京聯合会『大信濃』中、現代人物編の「蕗澤喜芳」評伝[8]
  • 1903年7月15日とするもの - 《出典》『著作権台帳(第26版 本冊)』[3][注釈 2](『文化人名録』では、昭和40年版〈第12版〉も日付はないものの「明治36年7月」と記載[26]。かつては昭和31年版〈第5版〉[30]まで「明治41年7月15日」と記載していたが、次の昭和32年版〈第6版〉[31]で「明治36年7月15日」と暦年を変更した。)。
  • 1906年7月15日とするもの - 《出典》『信毎年鑑(1979年版)』[9](かつては月日の限定はないが『1966年版』[25]で「明治31年」と記載していた)。
    1906年7月生まれであれば、1921年3月長野師範学校卒業時の年齢が14歳になってしまい、不相当である。
  • 1908年とするもの - 《出典》『国立国会図書館著者名典拠録』[32][注釈 14]
    • 1908年7月27日とするもの - 《出典》『人事興信録(第23版 下)』[6]

なお、それぞれ生年の記載が異なるにもかかわらず、誕生月を記す場合は7月となっている。

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著書

中には、編集に携わったものを含む。

蕗沢(蕗澤)喜芳名義

このほか、『女子教科 日常化學』(光文社、1931年)があった[34][注釈 16]。また、『昭和家事教科書』(三省堂、初版1932年 - 修正7版1941年)の執筆者(のうちの1人)であるとされている[8][注釈 17]

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翻訳

要約
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蕗澤喜芳名義

  • アール・ギブソン英語版『發明物語』蕗澤喜芳(訳)、詩と歌謡の社、1943年9月。国立国会図書館サーチR100000136-I1130000796059481216

蕗沢紀志夫名義

このほか『文化人名録』によれば、パール・バック『女の館(上・下)』(文藝出版社、刊年不明)があったと推定される[30][31][注釈 16]

脚注

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