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藤原乙牟漏
桓武天皇の皇后 ウィキペディアから
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藤原乙牟漏(ふじわら の おとむろ、760年〈天平宝字4年〉[1] - 790年4月28日〈延暦9年閏3月10日〉)は、藤原式家の藤原良継の娘。母は阿倍粳蟲の娘で尚侍兼尚蔵(就任時期不明)・阿倍古美奈。藤原氏の祖・藤原鎌足の玄孫にあたる。日本の第50代天皇・桓武天皇の皇后。第51代平城天皇・第52代嵯峨天皇の生母[2]。第53代淳和天皇の親王妃(贈皇后)・高志内親王の生母でもある。贈皇太后。
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生涯

宝亀4年1月2日(773年1月29日)の山部親王立太子から宝亀5年(774年)8月の小殿親王(後に改名して安殿親王)(後の平城天皇)出産までの間に皇太子山部親王(後の桓武天皇)に東宮妃として入内。宝亀5年(774年)8月に小殿親王を産む。[4]天応元年(781年)4月15日には山部親王が即位して桓武天皇となり、延暦2年(783年)2月5日には正三位に叙される。2月7日には夫人となり、4月には皇后に立てられる。同4年(785年)には安殿親王が立太子される。延暦5年(786年)には神野親王(後の嵯峨天皇)を産む。同8年(789年)には高志内親王を産む。同9年(790年)閏3月10日に31歳[1]で崩御し、高畠陵(長岡陵、京都府向日市)に葬られた。大同元年(806年)には即位した平城天皇により、皇太后を追贈された。
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人物

『続日本紀』には、「后性柔婉にして美姿あり。儀、女則に閑って母儀之徳有り(乙牟漏皇后は美しい方で、温和なお人柄であられた。礼儀正しく、良き母であられた)」と記されている。
脚注
出典
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