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藤原光能
正三位、参議。治承三年の政変で一時解任されるが復位する。 ウィキペディアから
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藤原 光能(ふじわら の みつよし)は、平安時代末期の公家。藤原北家御子左流、民部少輔・藤原忠成の子。右大臣・徳大寺公能の養子。官位は正三位・参議。
経歴
鳥羽院政期中期の久安2年(1146年)叙爵するが、その後20年近くに亘って叙位任官に与ることはなかった。
後白河院政期に入ると院近臣となり、長寛2年(1164年)従五位上に叙せられると、永万元年(1165年)ようやく下野守に任ぜられ初めて官職を得る。その後は、仁安2年(1167年)正五位下次いで従四位下・右近衛少将、仁安3年(1168年)従四位上次いで正四位下、承安元年(1171年)右近衛中将と一転して昇進を果たす。
安元2年(1176年)蔵人頭(頭中将)に補せられ、治承3年(1179年)10月には参議に任ぜられ公卿に列すが、11月に治承三年の政変による後白河院政の停止に伴い解官された。
治承4年(1180年)7月に福原京にいた光能の許に伊豆国の源頼朝と面会した文覚が訪れ、頼朝のために後白河法皇に取り次いで平清盛追討の院宣を出させるように迫ったとの伝聞があったという(『愚管抄』)。愚管抄の著者である慈円はこれを妄説として否定するが、逆に言えば当時は否定せざるを得ないほど院宣発給の言説が流通していたと想定され、『平家物語』において名場面の1つとして採られている他、慈光寺本『承久記』や『梅松論』『増鏡』『保暦間記』、真名本『曽我物語』でも院宣に触れられている[1]。
養和元年(1181年)3月に朝参を許されると、9月に参議に復して、12月従三位に進む。翌養和2年(1182年)左兵衛督・丹波権守を兼ね、寿永2年(1183年)2月に正三位に昇るが、病に倒れて子息の則光を左近衛少将に任じる代わりに辞官。まもなく出家・薨去した。享年54。
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官歴
注記のないものは『公卿補任』による。
- 久安2年(1146年) 正月5日:叙爵(統子内親王未給)
- 長寛2年(1164年) 11月16日:従五位上(院未給)
- 永万元年(1165年) 12月:下野守(元散位、懐遠辞替)
- 仁安2年(1167年) 正月28日:正五位下(朝覲行幸賞、院司、下野守)。正月30日:右近衛少将、兼下野守。12月13日:従四位下(臨時)
- 仁安3年(1168年) 3月23日:兼皇后宮権亮(皇后・藤原育子)。3月28日:従四位上(皇太后入内賞)。8月4日:正四位下(朝覲行幸賞)
- 承安元年(1171年) 12月8日:右近衛中将
- 安元2年(1176年) 12月5日:蔵人頭(頭中将)
- 治承元年(1177年) 9月6日:皇太后宮権大夫(皇太后・藤原忻子)
- 治承3年(1179年) 10月9日:右兵衛督、頭権大夫如元。10月10日:参議、督権大夫如元。11月17日:勅勘解官(治承三年の政変)[2]
- 治承4年(1180年) 7月8日:被免勅勘
- 養和元年(1181年) 3月:被聴朝参。9月23日:参議還任。12月4日:従三位
- 養和2年(1182年) 3月8日:兼左兵衛督丹波権守。9月5日:大嘗会禊御後次第使長官
- 寿永2年(1183年) 2月21日:正三位(行幸院賞、別当)。2月27日:解所職(以男前淡路守則光申任左少将)、即出家即薨
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肖像画
系譜
注記のないものは『尊卑分脈』による。
以下については、各種系図に記載が見られるが、真実性には疑問がある。
脚注
出典
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