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藤原孝範
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての貴族 ウィキペディアから
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藤原 孝範(ふじわら の たかのり)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての貴族。藤原南家貞嗣流の文章博士・藤原永範の養子。実父は藤原北家[1]の斎宮次官・藤原利永。官位は正四位下・大学頭。
経歴
文治3年(1187年)2月、文章生だった孝範は御書所の作文に列席した際、九条兼実から「名誉の士なり」と称賛された[2]。その後、上西門院(統子内親王)判官代・大内記・文章博士・大学頭・越前守等を歴任した。文章博士在任時には、承元・建暦・建保・承久の年号勘申に関わっている。
貞応元年(1222年)、清涼寺において詩会を催している。貞永元年(1232年)11月に出家して法名を寂尋とした。翌天福元年(1233年)8月、76歳で卒去。
漢詩の才に優れた文人として知られ、後高倉院の清涼寺供養願文等の多くの願文を草した他、寛喜元年(1229年)に関白・九条兼実の上表文も草している。
『柱史抄』『明文抄』『秀句抄』等の著作を残す。また『和漢兼作集』『鳩嶺集』『本朝文集』等にも詩文が残る。
系譜
- 父:藤原利長
- 母:不詳
- 養父:藤原永範
- 妻:不詳
- 長男:藤原経範(1189?-1257)
- 男子:藤原保範 - 実は藤原光兼の子?
- 男子:藤原邦仲
- 養子[3]:藤原宗範 - 実は経範の子?
脚注
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