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藤原宗成
平安時代初期の貴族。従五位上 ウィキペディアから
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藤原 宗成(ふじわら の むねなり)は、平安時代初期の貴族。藤原北家、左大臣・藤原永手の曾孫。参議・藤原家依の孫。従五位下・藤原三起の長男。位階は従五位上[1]。
経歴
大同2年(807年)に平城天皇の弟である中務卿兼大宰帥・伊予親王に対して密かに謀反を勧めたとして、捕縛されて左近衛府に収監される[2]。宗成は左衛士府で尋問を受けると、謀反の首謀者は伊予親王であると答えた[3]。これを聞いて平城天皇は激怒し、左近衛中将・安倍兄雄と左兵衛督・巨勢野足等に兵140名に率いらせて藤原吉子・伊予親王母子を捕らえて川原寺に幽閉する[4]。母子は飲食を断たれ、間もなく毒を仰いで自殺した[5]。また、宗成自身も流刑に処せられた(伊予親王の変)。宗成は藤原式家の右兵衛督・藤原仲成に唆されたともいうが、定かではない[6]。
その後、時期は明らかでないが流刑から赦される。大同4年(809年)平城上皇の不予による非常赦が行われており[7]、この時に許された可能性もある[8]。
伊予親王の変以降、世間から見捨てられた状態となり、世の人々は悪事の報いだと思ったという[9]。しかし、清原夏野と幼少の頃に親しい友人であったことから、淳和朝で夏野が高官に昇ると宗成も用いられるようになり、天長6年(829年)従五位下に叙爵し、天長9年(832年)従五位上に叙される等、淳和朝で僅かに昇進した[9]。のち、承和7年(840年)淳和上皇の崩御に際して、御前次第司次官に任ぜられている。
文徳朝末の天安2年(858年)5月27日卒去。享年74。最終官位は散位従五位上。家は貧しく困窮し、衣食にも事欠く中で没したという[9]。
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人物
才学がなく、不正な意図を持って媚びへつらうようなところがあった[9]。
官歴
『六国史』による。
脚注
出典
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