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藤原忠房

日本の平安時代前期の貴族、舞楽家、歌人 ウィキペディアから

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藤原 忠房(ふじわら の ただふさ)は、平安時代前期の貴族・舞楽家・歌人藤原京家右京大夫・藤原興嗣の子。官位従四位上右京大夫中古三十六歌仙の一人。

概要 凡例藤原 忠房, 時代 ...

経歴

仁和3年(887年信濃掾に任ぜられると、周防権掾播磨少掾光孝朝から宇多朝にかけて地方官を歴任する。

宇多朝末の寛平9年(897年)正月に左兵衛権少尉と武官に転じると、同年7月の醍醐天皇即位に伴い六位蔵人左近衛将監に任ぜられる。昌泰4年(901年従五位下叙爵した後も、左兵衛権佐・左近衛少将と醍醐朝前半は武官を歴任した。

延喜16年(916年正五位下・信濃権守に叙任され再び地方官に転じると、延喜20年(920年大和守と、醍醐朝後半は一転して地方官を歴任。この間、延喜22年(922年従四位下に叙せられると、延長3年(925年)には治国の功労により従四位上に昇叙されている。同年山城守

延長5年(927年)右京大夫として京官に復すが、翌延長6年12月1日(929年1月15日)卒去。

人物

一門には雅楽に秀でた者が多く、忠房も琵琶の名手であった父の興嗣よりその才を受け継ぎ、歌舞や管絃の分野において活躍した。忠房が作曲敦実親王振付を施した胡蝶楽延喜楽は、高麗楽の代表的な作品として知られる。延喜16年(916年)の宇多法皇五十御賀において、の名手であった参議藤原保忠とともに楽行事を務めている。

また歌人としての名声も高く、延喜6年(906年)に開催された「日本紀竟宴和歌」や、延喜21年(921年)の「宇多法皇春日行幸名所和歌」などに出詠するとともに、同じく延喜21年(921年)の「京極御息所歌合」では判者を務めた。延喜13年(913年)3月に宇多法皇が主宰した「亭子院歌合」においても、天皇により判者に指名されたが、恐れ多いとして断り当日参加しなかった。

中古三十六歌仙の一人として知られ、勅撰和歌集(『古今和歌集』『後撰和歌集』『拾遺和歌集』)に17首が入首している[1]

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官歴

『中古歌仙三十六人伝』による。

系譜

尊卑分脈』による。

  • 父:藤原興嗣[4]
  • 母:貞元親王の娘[5]
  • 妻:兵衛命婦 - 藤原高経の娘
    • 男子:藤原親衛
  • 生母不明
    • 男子:藤原千兼
    • 男子:藤原親公
    • 女子:不明[6]

脚注

出典

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