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藤原為信 (鎌倉時代)

鎌倉時代の公卿、画家、歌人 ウィキペディアから

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藤原 為信(ふじわら の ためのぶ)は、鎌倉時代後期の公卿画家歌人

概要 凡例藤原 為信, 時代 ...

略歴

生家は藤原北家国経流の嫡家で、右馬頭伊信の子。初名は為行。文応2年(1261年)14歳で叙爵文永3年(1266年中務少輔に任じ、以後左京権大夫左馬権頭刑部卿を歴任。政治的には安嘉門院大覚寺統に近かったとする説がある。嘉元元年(1303年皇太子富仁親王読書始において、関白二条兼基の陪膳役を務めている。また一時期鎌倉に下向していた時期があり、関東で詠んだとされる和歌が数首残る。同じく在鎌倉の冷泉為相二条為道と交流があった[1][4]

嘉元2年(1304年)57歳の時、散位従三位に進み、祖父以来の公卿に列する。嘉元4年(1306年)出家して官を辞す[1][2]。没年は知られないが、薨去の際に存命だった嫡男の為理正和5年(1316年)に没しているため、それ以前ということになる[5]

文化活動

為信の家は高祖父隆信以来似絵を伝えた家系であり、曾祖父信実、祖父為継もまた隆信派の名人として知られた。為信自身も似絵をよくし、代表作に『賀茂祭絵詞』『天子影[注 1]がある。歌人としては歌集『為信集』がある[1][2][3]。子には隆信流を継承した豪信[注 2]浄土宗西山派の僧として著名な実導がいる[2][3]

官歴

※出典のない項目はいずれも『公卿補任嘉元二年条による[7]

脚注

参考文献

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