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藤原範永

平安時代中期から後期の貴族・歌人。和歌六人党の一人。藤原北家長良流。正四位下・摂津守。子に藤原永綱、藤原季仲、永賀、藤原知綱(右衛門佐)の母。 ウィキペディアから

藤原範永
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藤原 範永(ふじわら の のりなが)は、平安時代中期から後期にかけての貴族歌人和歌六人党の一人。藤原北家長良流、内匠頭藤原中清(仲清)の子。官位正四位下摂津守

概要 凡例藤原範永, 時代 ...

経歴

後一条朝初頭の長和5年(1016年六位蔵人に補せられる。修理権亮式部大丞を経て、寛仁3年(1019年従五位下叙爵し、翌寛仁4年(1020年甲斐権守に任せられる。治安3年(1023年)春宮・敦良親王春宮少進となるが、のち伯耆守を兼ね、長元3年(1030年)治国の労により従五位上に叙せられた。翌長元4年(1031年正五位下

長元9年(1036年)4月に敦良親王が即位(後朱雀天皇)すると、同年7月に範永は従四位下に昇叙される。翌長元10年(1037年尾張守として地方官に転じ、長久4年(1043年安福殿造営の労により従四位上に叙せられた。

後冷泉朝初頭の寛徳2年(1045年大膳大夫として京官に復す。天喜元年(1053年但馬守に任ぜられると、康平5年(1062年阿波守、康平8年(1065年摂津守と後冷泉朝の中盤以降は専ら受領を務め、この間の天喜4年(1056年正四位下に至る。また、康平4年(1061年)には太政大臣藤原頼通の七十賀に参会している。

延久2年(1070年)頃に出家津入道と号した。

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歌人として

受領層の歌人集団・和歌六人党では指導的立場にあり、相模能因橘俊綱を始め多くの歌人との交流が知られる。長久2年(1041年)『弘徽殿女御歌合』、永承5年(1050年)6月の『加賀院歌合』、天喜4年(1056年)『皇后宮寛子春秋歌合』等に参加。康平6年(1063年)『公基朝臣歌合』では判者を務めた。『後拾遺和歌集』(14首)以下の勅撰和歌集に計30首が入集[1]。家集『範永朝臣集』がある。

官歴

注記のないものは『範永朝臣集』による。

系譜

後代、一子・良綱の子孫が高倉家堀河家樋口家として堂上家に列した。

脚注

出典

外部リンク

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