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諏訪部定矩
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諏訪部 定矩(すわべ さだのり[1])は江戸時代前期の旗本。江戸幕府馬預。
経歴
相模国に[1]諏訪部定吉と先妻の子として生まれた[2]。通称は源二郎[1]。慶長14年(1609年)徳川秀忠に御目見し、大坂の陣では井上正就組に属した[1]。元和2年(1616年)切米を拝領した[1]。父から八条流馬術を受け継ぎ[3]、元和7年(1621年)馬役を命じられ[1]、度々陸奥国や武蔵国府中へ馬を買い付けた[4]。寛永9年(1632年)徳川家光に出仕した[1]。
寛永11年(1634年)3月28日江戸城桜田口で異母弟定久を無礼討ちにし、家光から褒詞を受けたが[5]、父定吉・継母との間に遺恨を残した[2]。
寛永20年(1643年)11月7日から12月5日まで子定直と荒木十左衛門元政と共に馬買衆として陸奥国・出羽国を廻り、馬を買い付けた[6]。
慶安2年(1649年)5月27日西ノ丸下厩舎の自宅において、普請場から帰る途中の堀田正盛・安藤重長・稲葉正則・庄田安照に料理を提供するため、次の間で屈んで湯を試飲していたところ、父定吉に脇差で襲われ、帷子の袖を損傷した[2]。定吉は4人に取り押さえられて相模国の知行地に流され、定矩は山下町の町屋に引き取られた後、自宅に戻った[2]。
承応2年(1653年)父が死去すると、12月22日跡を継いで馬預となり、剃髪して元入と号した[4]。万治2年(1659年)7月13日致仕し、養老料200俵を受けた[4]。寛文元年(1661年)4月23日死去した[4]。法名は元入[4]。雑司ヶ谷法明寺に葬られ、以降代々の墓地となった[4]。
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無礼討ち事件
寛永11年(1634年)3月28日[5]江戸城和田倉馬場において[2]、水戸頼房邸から帰城途中の家光に対し、松平直政が献上した馬の上覧が行われたが[5]、定矩が馬に乗ろうとした際、手綱が異母弟定久の顔に当たってしまった[2]。帰り際に桜田口で[5]定久が「よくも手綱を顔に投げつけて辱めてくれたな。討ち果してやろう。」と憤り、定矩が「そんなことは自分には全く覚えがない。たとえそんなことがあったにしても、責められることではない。」と否定すると、定久は抜刀して斬りかかり、定矩は左頬を負傷したが、太刀で応戦し、定久の臍の辺りを両断した[2]。
定矩はすぐに阿部忠秋邸に出頭し、目付衆の僉議の結果、供述に疑義はないとして[2]無礼討ちと認定され、家光から「処置尤も神妙である。」と褒詞を受け[5]、忠秋家来鈴木宇右衛門との養生を命じられた[2]。しかし、父定吉は激怒し、継母の訴えにより見廻りと称して鈴木宅に押し入り、長刀で宇右衛門に斬りかかった[2]。宇右衛門が「定矩は忠秋様が預っている。」というと、定吉は「定矩が弟を斬って御感に預かったなら、私は嫡子を斬って御感に預かろう。」と主張し、忠秋等に宥められた[2]。以降同様のことが2,3度あり、定吉は定矩を恨み続け、継母もことあるごとに末弟成定に「定矩はお前の兄の仇だ。必ず復讐してくれ。」と言い聞かせたという[2]。
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著書
親族
- 父:諏訪部宗右衛門定吉[4]
- 母 - 定吉の先妻[2]。
- 姉 - 山上弥四郎政次の妻[4]。
- 姉 - 山岡伝右衛門景重の妻[4]。
- 姉 - 美濃部十大夫茂吉の妻[4]。
- 弟:黒沢杢助定幸 - 黒沢次郎右衛門重久の養子[4]。
- 弟:山上文七郎定正 – 山上弥四郎政次の養子[4]。
- 妹 - 田中孫兵衛貞正の妻[4]。
- 妹 - 府中六所宮の神職猿渡伊予守盛長の妻[4]。
- 弟:諏訪部郷左衛門定之 - 徳川忠長に仕えた後、寛永13年(1636年)12月10日徳川家光に出仕して大番となったが、寛永16年(1639年)11月17日大坂城警備中に林半四郎を斬り殺して自殺した[4]。
- 異母弟[2]:諏訪部源太郎定久[4]
- 妹[4]
- 弟:諏訪部文九郎成定[4]
- 子:諏訪部彦兵衛定直[4]
- 子:諏訪部喜右衛門定治[4]
- 子:栗原仁右衛門利実 – 栗原七郎兵衛利智の養子[4]。
脚注
参考文献
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