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鏑木清方

明治から昭和の日本画家 ウィキペディアから

鏑木清方
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鏑木 清方(かぶらき きよかた、1878年明治11年)8月31日 - 1972年昭和47年)3月2日)は、明治期から昭和期にかけての浮世絵師日本画家随筆家。なお、姓は「かぶらぎ」でなく「かぶらき」と読むのが正しい。

概要 鏑木清方, 生誕 ...

近代日本の美人画家として上村松園、彼の門下より出た伊東深水と並び称せられる。清方の作品は風景画などはまれで、ほとんどが人物画であり、単なる美人画というよりは明治時代の東京の風俗を写した風俗画というべき作品が多い。

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経歴

要約
視点

清方は1878年、東京神田佐久間町に生まれた[1]。本名は健一[2]。元は條野(条野)姓であったが、1895年に母方の家督を継ぎ鏑木姓となった[1][2]。父は条野採菊といい、ジャーナリストでありながら[3]山々亭有人と号した幕末の人情本作家であった。13歳となる1891年(明治24年)7月、浮世絵師の系譜を引く水野年方に入門した[1][2]。翌年には家庭の事情により神田の東京英語学校をやめ、画業に専心している[2]1893年(明治26年)に師の年方から「清方」の雅号を贈られた[2]。この頃の清方は鷺流の狂言も学んでおり、同年には日本橋倶楽部で狂言師として初舞台も踏んでいる[2]。17歳ころから清方の父親・採菊が経営していた「やまと新聞」に挿絵を描き始め、続いて「東北新聞」や「九州日報」などの地方新聞や諸雑誌などに挿絵を描き[2]、十代にしてすでにプロの挿絵画家として活躍していた。師である年方もまた「やまと新聞」に挿絵を描いており、年方が展覧会出品の作品制作に向かうにつれ、清方も20歳となった1897年(明治30年)の第2回日本絵画協会(絵協)展に初めて「ひなた」を出品した。7月には小説雑誌「新著月刊」に口絵を描き、尾崎紅葉と出会うきっかけとなった[2]。清方は以降も絵協に出典を重ねながら、「新著月刊」や「新小説」の口絵、人民新聞社や読売新聞社へ入社して挿絵を描いた[2]美人画や風俗画家としての活動も始めるが、1901年(明治34年)に泉鏡花と知り合い[2]、その挿絵を描いたことや幼少時の環境からも終世、江戸情緒及び浮世絵の美とは離れることがなかった。

鏡花と出会った1901年には、仲間の画家である鰭崎英朋池田輝方池田蕉園大野静方河合英忠山中古洞山村耕花らと共に烏合会(うごうかい)を結成した[2]。このころから、「本絵」(「挿絵」に対する独立した絵画作品の意)の制作に本格的に取り組みはじめ、烏合会の展覧会がおもな発表場所となる。初期の代表作として『一葉女史の墓』(1902年)がある。少年期から樋口一葉を愛読した清方は、一葉の肖像や、一葉作品をモチーフにした作品をいくつか残している。その後1916年大正5年)には結城素明吉川霊華(きっかわれいか)、平福百穂(ひらふくひゃくすい)、松岡映丘らと金鈴社を結成、特に映丘と親交を深めた[2]。しかしながら清方自身はこうした会派、党派的活動には関心があまりなかったようだ[2]1927年(昭和2年)、第8回帝展に出品した代表作『築地明石町』は帝国美術院賞を受賞した。このころから大家としての評価が定まったが、清方はその後も「本絵」制作のかたわら挿絵画家としての活動も続けた。鏡花の影響を受けた清方自身も文章をよくし、『こしかたの記』などいくつかの随筆集を残している。

1929年(昭和4年)には帝国美術院会員に選出されるが、1936年(昭和11年)年に平生文相が示した美術院改革案に反対して横山大観らとともに会員を辞任する[4]。その後、1937年(昭和12年)に帝国美術院が改組して帝国芸術院が発足すると改めて芸術院会員となった。

1944年(昭和19年)7月1日に帝室技芸員となった[5]。同年、この年から始まった新文展の審査員に就任[6]

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1951年(昭和26年)頃

第二次大戦の空襲で東京の自宅が焼け、終戦後、1946年から鎌倉市雪ノ下に自宅を構えて晩年は同地に住んだ。関東大震災と第二次大戦による空襲という2つの災害によって、清方がこよなく愛した明治時代の古き良き東京の風景は消え去ってしまったが、清方は自分がこよなく愛した東京の下町風俗や当世風の美人を終生描き続け、戦後も日展を中心として作品の発表を続けた[2]1954年(昭和29年)、文化功労者表彰を受け、同年には文化勲章を受章した[7]。明治、大正、昭和を生き抜いた清方は1972年(昭和47年)、鎌倉市雪ノ下の自宅で老衰により93歳で没した[2]。晩年を過ごした雪ノ下の自宅跡には鎌倉市鏑木清方記念美術館が建てられている。墓所は台東区谷中霊園にある[8]

挿絵画家出身で、浮世絵の流れもくむ清方の画風は全体の画面構成などには浮世絵風の古風なところもあるが、人物の容貌だけでなく内面の心理まで描き尽くす描写には高い技量と近代性、芸術性が見られる。重要文化財指定の『三遊亭円朝像』(1930年・昭和5年)は、清方には珍しい壮年男性の肖像であるが、幼き日に父を通じて出会い、画家になるのを勧め、栃木方面に取材に連れ出したこともある恩人を敬愛を込めて描き上げた代表作の一つに数えられている。

清方の門人は数多く明治30年に入門した門井掬水を筆頭に、林緑水石井滴水西田青坡松田青風伊東深水山川秀峰寺島紫明笠松紫浪柿内青葉大久保青園川瀬巴水小早川清鳥居言人古屋台軒北川一雄桜井霞洞大林千萬樹増原宗一山田喜作天沼青蒲千島華洋林杏華津村青芽野口青華岡本更園らがいた。また、1899年(明治32年)頃、尾上多賀之丞 (3代目) も清方に入門していた。

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代表作

さらに見る 作品名, 技法 ...
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脚注

主な文献

外部リンク

関連項目

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