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乙未事変
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乙未事変(いつびじへん)は、1895年10月8日、三浦梧楼、岡本柳之助らの計画に基づいて、日本軍士官が訓練してきた朝鮮人訓練隊と日本軍守備隊[1]、領事館警察官、大陸浪人ら日本人らが、王宮に乱入し、李氏朝鮮の第26代国王・高宗の王妃であった閔妃が暗殺された事件。閔妃暗殺事件(びんひあんさつじけん)ともいう[2]。
当時、朝鮮は日本・欧米列強等の帝国主義的進出に晒される中、国の命脈を保つにはどの国と結んぶべきかを巡る両班官僚層の主導権争いや、王妃一族と王の実父との権力争い等複雑な事情が絡む中、王妃が欧米に接近、勢力後退を怖れる日本によって王妃暗殺が実行された。事件後、政権は事実上日本の傀儡と化したが、諸外国の非難を受けた日本側は領事裁判権(いわゆる治外法権)を利用し帰国させた日本人関係者をいずれも証拠不十分で無罪ないし免訴とし、朝鮮側では3名ほどが王妃殺害の責任者とされ処刑された[3]。処刑された朝鮮人については冤罪説が強く、その後、政情の変化により真の責任者の一人と名指された禹範善が日本に亡命したものの朝鮮人に暗殺された。その暗殺犯らは王太子純宗からの要請もあって一部減刑されはしたが、日本・朝鮮両国の力関係もあって事件自体は事実上有耶無耶となった[4][5][6]。また、王妃を信頼していた高宗の、日本政府並びに事変に加担した形の興宣大院君への不信が決定的となった[7]。
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概要
要約
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1894年3月28日、開化派の中心人物金玉均が、閔氏あるいは保守派の使嗾を受けた刺客洪鐘宇により回転式拳銃で暗殺された。同年5月31日、閔氏政権に不満をもつ農民が蜂起し、甲午農民戦争が勃発。農民軍は全州を占領したが、統治能力を失った閔氏政権は宗主国清に軍の出動を要請。清の軍隊が朝鮮半島に駐留することを嫌った日本政府(第2次伊藤内閣)は、朝鮮への派兵を閣議決定した。閔氏政権が農民に譲歩するかたち(全州和約)で戦争は6月にいったん沈静化した。そのあいだ日本は閔氏政権に日本の意向に沿った内政改革を求めたが、受け入れられず、1894年7月23日、日本軍が景福宮を占領、高宗に日本への援軍要請を出させ、日清戦争を起こす名分を手に入れた。日本は閔氏政権と対立していた興宣大院君(高宗の父)の復権とともに、開化派の金弘集政権を誕生させた。金弘集政権は日本亡命から帰国した朴泳孝も参加し、日本の圧力の下で甲午改革を進めた。日清戦争は日本が勝利し、1895年4月17日、下関条約が締結された。その結果、国際法上は朝鮮は清から独立した形となったものの、実態は日本の圧倒的な力関係の下にあった。しかし、三国干渉によって日本の影響力が後退すると、それまで親日的な姿勢を示していた閔妃はロシア・アメリカ等他国との関係も深め、また朴泳孝の失脚に成功し、1895年7月6日に内閣改造を行い、政権を奪還した[8]。
朝鮮各地で侵略姿勢を強める日本に対しアメリカ・ロシア等とも結んで掣肘しようとする姿勢を強めた閔妃勢力の復権は、閔妃と日本及び親日派勢力との対立を決定的にした。かくして、日本公使三浦梧楼・宮内府顧問岡本柳之助らは前年の王宮占領の再現を狙って、親露派の閔妃を排除するクーデターを実行することにしたとされる[8]。一方で、大院君が軍事顧問岡本柳之助に再三に渡り密使を送っていたこと[9]や、10月6日に訓練隊を解散し隊長を厳罰に処すとする詮議がなされたことが漏れ伝わったことで激昂した訓練隊が大院君を奉じ決起することとなった[10]とする日本側史料も存在する。ただし、この時期、大院君が王位継承の可能性もあって期待をかけていた孫が親日派政権に危うく処刑されかけ、大院君自身も軟禁状態にあるなど、大院君らは生命も危険な状況にあった。後に三浦は回顧録に、天皇からどうやって大院君を使ったか、特約でもあったかと聞いて来いと言われたと米田侍従が言うので、三浦は、約束も何もない、そもそも政治には口を出さないはずだったのに、閔妃が口を出してきている、殿下はこれまで通り容喙しないようにと釘を刺しただけだと述べている[11]。なお、この回顧録には、最初「お上はアノ事件をお耳に入れた時、遣る時には遣るナと云うお言葉であった」と米田侍従から伝えられたことを書いていたが、後の文庫本では削除されている(戦後、別の出版社からタイトルを変えて出された本では戻されている。)[11]。
訓練隊の訓練は日本人士官の指導していた事から、その解散を告げられた時三浦の頭に、時期が切迫し一日も猶予を許さぬ、という考えが閃いたのだと、三浦は述べている[12]。
1895年10月8日午前3時、日本軍守備隊・領事館警察官・日本人壮士(大陸浪人)、朝鮮訓練隊が景福宮に突入、騒ぎの中で宮大臣の李耕稙が閔妃をかばおうとして腕を切り落とされた上でとどめをさされるように殺害され、女官3名が殺害された。資料により女官3名の中の一人とも別ともされるが、閔妃も斬り殺され、遺体は焼却された[4][5][8]。この時、三浦らは大院君をかつぎだすため、屋敷から王宮へ参内させようとしたが大院君がのらりくらりと時間を引き延ばしたため、事の露見を防ぐために夜明け前に完了させるはずだった作戦が破綻したとする説がある[13]。当時、王宮に居合わせた国人顧問らに日本軍兵士・日本人壮士らが目撃されたばかりか、最後に意気揚々と引揚げる日本人壮士らが朝市に出てきた民衆や急を聞いて駆けつけた他国外交官らに目撃されている。事件後、国王高宗と王太子は日本側による毒殺を怖れ、当初は西洋人宣教師らの差し入れる卵などで命をつなぎ[14]、その後も露館播遷までアメリカ、ロシアの公使館から鍵のかかった箱で食事の差入を受けたりもしたという[15]。
なお、日本公使館守備隊は鎮静化のため王宮の警備を行った[10]、侍衛隊と訓練隊との衝突は軽微なものとなった[10]、大院君の護衛に日本人が参加することなどについて三浦梧楼は黙認した[16]などとする日本外務省側の資料もある。
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事件の背景と性格
要約
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親日政策時代の閔妃に壬午軍乱(1882年)を起こした大院君に対して、清の北洋大臣の李鴻章は清国の天津に監禁措置を行った。以後閔妃は親清政策へと転じたが、壬午軍乱の収拾において、大院君を政権から取り除くべきであるという点では、日清両国の合意は取れていた[17]。これ以降1895年の日清戦争敗北まで事実上朝鮮半島を支配した李鴻章は、当時の李氏朝鮮の国庫について、「国庫に直近の1カ月の備蓄分もない」と舌打ちしている。閔妃政権後の高宗政権においても、皇室予算が国家予算を吸い込む「二重構造」は、1910年の日韓併合で国が滅びるときまで変わらなかった[18]。
日清戦争で勝利し、清國の朝鮮に対する宗主権を排除した日本は、三国干渉を主導したロシア帝国との間で朝鮮半島の支配権を争うことになった[19]。閔妃は清国に代わり親露路線に転じ、日本軍の指導下にあった訓練隊を解散し「ロシアの教官による侍衛隊」に置き換えようとしたため日本公使館は危機感をもち[20]、壬午軍乱後に清国に3年拘束され帰国していた大院君に接近した。閔妃と大院君とは相互憎悪関係にあり、彼女の政権時代も李氏朝鮮には、「冒険的クーデター」と「政敵の処刑」が横行していた。彼女の死後の1899年8月に高宗が公布した「大韓国国制」第2条は、大韓帝国の政治は「今後も万世にわたり不変な専制政治」とし、李氏朝鮮王朝自身は立憲的な政治改革を行わなかった[18]。
興宣大院君と閔妃の深い対立と暗殺合戦
事件の背景には、興宣大院君と閔妃の権力闘争(大院君が閔氏一族によって摂政の座を追われた1873年の最初の失脚以来、20年以上にわたって凄惨な権力闘争を繰りひろげていた)、もともと朝鮮王朝に付随していた君主勢力の君権派と有力臣下の臣権派の対立、改革派(開化派)と守旧派(事大党)の路線闘争、さらに朝鮮半島をめぐる日本の安全保障問題、日本と清の覇権争い、日清戦争後の日本とロシア帝国の覇権争いがあった。そのため、日本公使三浦梧楼らの主導による親露派の閔妃を排除するためのクーデターとする説が日本の歴史研究のほとんどで採用されているとの見解があり[21]、歴史事典の多くもこの説を明記している[4][5]。
事件後に行われた朝鮮国内の裁判では、親日派の金弘集政権のもと、解散に不満をもった訓練隊の反乱という形で、3人を死刑とする形で判決が出ている[22]。角田房子は、彼らは当時たまたま取調べを受けていた為、濡れ衣を着せられたとみている[3]。1986年に高宗は露館播遷で日本から安全となったとき、朝鮮人側のクーデターも犯人らを挙げている。
日本政府の対応・予審免訴

事件2日後の1895年10月10日、日本政府は実情調査のため小村寿太郎外務省政務局長を京城に派遣。三浦は10月24日に免官処分が下され、小村が後任となった。また特派大使として井上馨が京城に派遣された[23]。
当時は日鮮修好条規により朝鮮に日本人への裁判権がなく、三浦をはじめ事件に関与した容疑のある外交官、軍人らには帰朝命令が、日本人民間人には退韓が命ぜられ、帰国後直ちに容疑者らは広島監獄署未決監に勾留され、予審の取調を受けた[23]。壮士らが帰国した時、日本では迎えに大勢の者が来て、さながら凱旋将軍のような歓迎ぶりだったという[24]。
軍人と民間人についてともに審理すべきではないかとの意見もあったが、結局別々に審判されることになった。公使館付武官や守備隊長等の軍人8名に関しては、1896年1月14日の第五師管軍法会議において無罪判決が下された[25]。隊長は初めから閔妃暗殺の計画に与っていたわけではないので謀殺にはならない、三浦の指示に従っただけなので擅権の罪にはならない、部下らは隊長の指示に従っただけなので擅権の罪にはならないという論理であった[26]。三浦ら外交官及び民間人の被告48名については、広島地方裁判所(予審判事吉岡美秀)において、検事の請求により謀殺罪及び兇徒嘯集罪等の嫌疑で予審に付されたが、同年1月20日に首謀と殺害に関しては[27]刑事訴訟法第165条に従い証拠不十分で全員免訴の予審終結決定がなされ、勾留者は放免となり、公判に付されることはなかった[28][29][30]。このとき、世間は再び三浦らを凱旋将軍のように持ち上げたという。
日本国内の裁判にあたっては、朝鮮政府(金弘集政権)より、事件は朝鮮政府内のもので大院君に責任を帰する[31]内容で決着させること、たまたま取り調べていた2名を閔妃暗殺の犯人とする意向が日本政府へ伝えらた[32]。
事件当時、日本公使館一等領事であった内田定槌は、外務次官原敬宛に事件関連の私信8通を送っており、閔妃を殺害したのが朝鮮人守備隊の陸軍少尉であること(10月8日付)、「若し之を隠蔽せざるときは、我国の為め由々敷大事件と相成」ため事件への日本人の関与を隠蔽する工作を行っていること(10月11日付)を報告している[33]。
また、後に与謝野晶子の夫となる与謝野鉄幹も加わっていたとされたが、当日に木浦で釣りをしていたアリバイがあったとして、広島地裁検事局は免訴とした。
朝鮮政府の対応
朝鮮では閔妃暗殺の2日後(10月10日)、閔妃死亡を公表する前に、大院君は閔妃の王后位を剥奪し、平民に落とす詔勅を公布した[34](その後、小村壽太郎の助言もあり、11月26日に再び王后閔氏に復位[31])。
朝鮮の裁判では、李周会(前軍部協弁=次官)、朴銑(日本人による被傭者)・尹錫禹(事件時の侍衛隊将校[14]、判決時は訓練隊と侍衛隊を統合した親衛隊の副尉)[22]の3人が、同年10月19日に絞刑に処せられた[35]。日本側の外交文書によれば、たまたま朴銑と尹錫禹を取り調べているので彼らを犯人として幕引きを図ろうとの申し出が金弘集からあったとしている。襲撃者の日本人壮士の小早川秀雄の手記によれば、李周会は下手人だと自首し日本人壮士らを救おうとした義人だとしている。ところが、朴宗根によれば、李は終始無実を主張しており、李はたまたま家が王宮の近くだったので異変を知り来ただけで、李が日本側の事実上傀儡となった金弘集にとってライバルの朴泳孝の残党であったため冤罪を着せられたとしている。角田房子は、朴銑と尹錫禹は冤罪とし、李周会は壮士の予審関係文書に交流が見えるので当初は反乱参加者とみていたが、朴宗根の説から無関係の可能性もありうるとはしている。[36]
高宗は露館播遷後に事件についての再調査を実施し、事件が日本人士官の指揮によるものであること、日本人壮士らによって閔妃が殺害されたこと、「朝鮮人の逆賊」が日本人を補助していたことなどを調査結果としてまとめ、ソウルで発行されていた英文雑誌に掲載した[37]。
高宗は1906年、韓国統監代理長谷川好道を謁見した際に「我臣僚中不逞の徒」(私の臣下の中に道義にもとった者が居た)と述べている[38]。また、朴銑と尹錫禹を冤罪として後に賠償を行い、閔妃暗殺事件の容疑で特赦になった趙羲淵(当時軍部大臣)[39]・禹範善(訓錬隊第二大隊長)・李斗璜(訓錬隊第一大隊長)・李軫鎬(親衛第二大隊長)・李範来(訓錬隊副隊長)・権濚鎮(当時警務使)の6名について、「王妃を殺害した張本人である」としてロシア公使館から処刑を勅命で命じている[40][41]。
朝鮮側襲撃者のその後
禹範善は、純宗が放ったとされる刺客の高永根と魯允明によって広島県呉市において1903年(明治36年)11月24日暗殺され[42]、1907年2月4日、広島控訴院で高永根は無期、魯允明は12年の刑が言い渡された。同年に統監府は趙羲淵以下6名を特赦することを決定したが、その際、純宗は「閔妃殺害の犯人である禹を殺した高永根を特赦すれば、乙未事件はここで初めて解決し、両国間数年の疑団も氷解する」として高永根も特赦するよう要求している[43]。
事件の首謀者・関係者
訓練隊及び朝鮮人関係者
訓練隊はたびたび警察と紛争を起こすなど荒れていて種々不満を持っていたとされ、事件では訓練隊が大院君を奉じて宮中に突入、日本軍は異状に気づいて出動、訓練隊と侍衛隊の間に入って衝突防止にあたった、間もなく侍衛隊は逃げ出したため日本軍は訓練隊に任せて引揚げ、大院君が大官の任免や改革にあたっていると、事件当初、日本では報じられていた[44]。ところが、次第に日本軍・日本人らによる襲撃であることが明らかになるに連れ、大院君が訓練隊解散の反対を訴えるため訓練隊とともに王宮に来たところ侍衛隊に止められたため衝突となり、大院君が日本軍に協力を求めてきたため、日本軍が出動したという形に、責任を訓練隊に全て帰す形から、訓練隊や大院君をより擁護して、また彼らに日本軍を正当化してもらう形に説明が変わっていった[45]。
一方で、事件には実際には朝鮮人の訓練隊は関与していないという噂が直後からあった。しかし、サバチンは、事件時に訓練隊40名が武器を置いて整列しているのを見たと証言している[15][14]。一方で、当時、漢城にいた英国領事ヒリア-は、確証はないものの現場にいた朝鮮人兵士なる者は日本人が変装したものではないかと思うと北京駐在英公使オコーナーに報告をしている。
訓練隊が居たのは事実であるが、襲撃は日本軍守備隊と日本人壮士によるものであり、訓練隊はわけもわからず引っ張りだされただけだとする見方もある[15][14]。このとき、事件後間もない時点で日本公使館がまとめた資料ではもともと閔妃の信任厚い訓練隊の連隊長の洪啓薫が小隊を率いて駆け付けたものの、小隊長ともども日本人士官に切り殺されたという話も伝わっている。金文子は、大院君を担いでクーデターを起こしたとの責任を訓練隊に着せ、それに気づいた日本軍が駆け付けて事態を収拾したという体裁を三浦らがとろうとしたものと考えている[46]。洪啓薫はかつて閔妃を救出したこともあり王党派で名高く、親日派によって創設され日本人士官に訓練され親日派が多いとみられる訓練隊の中で選抜した人員で信頼できる小隊を編成していた。事件後間もない時期に日本紙は、洪は、事件時には自身の小隊を率いて訓練隊の鎮圧にあたり、銃撃を受けて負傷を追ったがひるむことなく、数人相手の乱戦の中で刺し殺されたと、訓練隊への取材からとして報じている[47]。
日本人壮士
実際の暗殺の首謀者や実行者は誰であったかについては複数の学説が存在しているものの、日本における歴史研究の多くは、三浦梧楼らの計画に発し、その指揮によるものとする[21][4][5][8][48]。堀幸雄は、「玄洋社、関東自由党、熊本神風連の子弟ら50人が安達謙蔵を部隊長に王宮に乱入し閔妃を殺害したのである」としている[49]。これら壮士の多くは、国権拡張を主張する熊本国権党員で、日清戦争を機に党の領袖である安達謙蔵が社長となって漢城に設立した新聞社「漢城新報社」の社員であった[50]。日本人壮士の一人である売薬商の寺崎泰吉(別名:高橋源次)は、美人を殺し一友の話ではそれが閔妃だというが疑念に耐えないと当初言っていたが、後には、殺害したのは自分だが、他の者が我こそは王妃殺害犯とばかりに手柄顔で名乗り出ていると言い出している[51]。閔妃は初め日本陸軍士官に斬られ次いで雑貨商の中村楯雄に斬られたとする内田領事の報告、平山岩彦や田中賢造をあげる説などがある。[51]
駐朝鮮日本外交官
事件当時、日本公使館一等書記官であった杉村濬は、回顧録『明治廿七八年在韓苦心録』(1904年)で自らが「計画者の中心」であると述べ、閔妃を中心とする親露派を排除するため大院君や訓練隊を利用したクーデターであったと語っている[48]。また裁判では「手段は前年7月の王宮占領に比べ、はるかに穏和で、前年の挙を政府は是認している以上は、後任公使がこれにならって行った今回の挙もこれを責めることはできない」との内容の供述[52]を行っている[53]。
また、領事官補だった堀口九萬一による事件翌日の1895年10月9日付書簡が2021年に発見され、そこに「(王宮への)進入は予の担任たり。塀を越え(中略)、漸く奥御殿に達し、王妃を弑し申候」と書かれていることが判明した[54]。広島地裁予審では堀口も被告の一人であったが免訴となり、以後外交官に復職、各国に赴任した[55]。
日本側は当初、解散を伝えられた訓練隊が大院君を担いだクーデターという形で説明を行おうとしたが、日本人や日本軍の関与は多数の人々に目撃され、隠蔽は困難となり、諸外国の非難を受けた。そこで、犯罪者を取調べ、日本側で処罰するとして、三浦公使他、日本軍軍人、大陸浪人らが日本に送還された。
大院君
大院君については、王宮行きに長時間抵抗し、それが真相発覚につながったこともあって、角田房子・金文子は、大院君は無理矢理、反乱に引っ張り出されただけとみている[56]。また実際に、襲撃後、大院君は日本側によって事態の正当化のために名をさんざん使われているが、新政権が事実上日本の傀儡化しただけで、大院君は何ら実質的なものは得ていない。
日本政府・日本軍中央
日本政府の直接的関与については確たる証拠がなく、秦郁彦は「証拠不足」との見解を示している[57]。
近年の学説では、崔文衛は、そもそも三浦悟楼は井上馨の希望により後任公使となったが、軍人出身で自ら外交はズブの素人として一時は就任を断るほどであり、その後、説得され赴任するが、西園寺の外交慣例に反するとの注意にもかかわらず井上は漢城に17日間もとどまって三浦と打ち合わせを行い、さらに今度は日本軍守備隊の指揮権を要求して西園寺の反対を受けながら、結局は伊藤内閣で認められており、クーデターは日本政府の全面的ではないとしても広範な支持を得た既定方針であることを示唆、元勲の井上が自身の悪評を避けるため三浦にクーデター役を引き受けさせたのではないかとして、前任公使井上馨の主謀論をとる[58]。
金文子は、電信線網を返還しようとして井上は「更迭」されたのであり、参謀次長の川上操六ら大本営の意を受けて、戦略的に朝鮮における電信線網の維持・確保しておくために後任として三浦が送り込まれたとする説をとる[59]。なお、事件当時における見方としては内田定槌が原敬に宛てた私信(前述)があり、「我政府の内意に出でたるものにあらざるべし」が、前年の王宮占領と同様に政府が追認する可能性があるため処分について当惑している旨が記されている(10月19日付)[33]。
福澤諭吉関与の陰謀論
安川寿之輔は、「閔妃は、微妙なバランス感覚による外交政策を得意にしていたが、日本では事件後ことさら閔妃を誹謗し、事件を閔妃と大院君との権力闘争の帰結として面白おかしく描くような言説が流布」されたと主張し、「そうした情報操作には福澤諭吉の関与があった」としている[60]。安川は、事件後に日本を非難するアメリカ世論をなだめるために、閔妃が惨状虐なる陰謀を逞しくしていたという物語を、福沢が慶應義塾関係者に英語で作らせ、『ニューヨーク・ヘラルド』紙の記者に渡すことまでしたという[60]。
目撃証言
事件時、高宗は景福宮中の乾清宮にいたと伝えられるが、日本側史料によると、さらに普段はその中の長安堂が国王の居間、坤寧閣が王妃の居間で、王太子夫妻が居るのは坤寧閣裏手の別棟であり、王妃は長安堂から引き出され後、殺害されて坤寧閣の奥に移され、さらに夾門から運び出されて、そばの小山を周った脇で焼棄てられたとされている[61][62]。また、日本人襲撃者側の主張では、王らと居たところから王妃を引きずり出した、王には経緯を払って後宮に捜しに行った等まちまちである。
純宗・高宗ら朝鮮王族
閔妃の子である純宗は、禹範善を「乙未事件ニ際シ、現ニ朕ガ目撃セシ国母ノ仇」とし、自身が目撃したと語っている。日本側史料においても、「禹ハ旧年王妃ヲ弑セシハ自己ナリトノ意ヲ漏セリ」と禹範善自身が閔妃を殺害したと漏らしたとするものもある[43]。もっとも、信頼できる資料や証言に純宗が殺害現場にいたとするものはあまりなく、これは訓練隊第二大隊長である禹範善が反乱を起こした訓練隊を率いているのを見た、あるいは禹範善が責任者であったとの意と考えられる。事件直後の日本側での報道や朝鮮政府の事件後の判決では、訓練隊第一大隊が周囲を包囲し、禹範善の第二大隊が王宮を直接襲撃し侍衛隊と戦闘したとしている。また現場近くにいた高宗は、「我臣僚中不逞の徒」(私の臣下の中に道義にはずれた者が居た)と語っており、露館播遷により日本の圧力を逃れたときには、それまで犯人とされていた者の内2名を濡れ衣であるとし、仇をとるべき敵として禹範善ら様々な部署の者6名を挙げている[38]。1907年には、純宗は閔妃殺害の仇である禹の暗殺犯らを特赦すれば、乙未事変が解決し、両国間数年の疑団も氷解すると日本に要請してきており、反閔妃派の興宣大院君も死亡していたため、減刑措置が和解案として実行されている[6]。
外国人
このあたりの経緯についてはイザベラ・バードの『朝鮮紀行』にも詳述されている[63]。景福宮の警護にあたっていた侍衛隊の教官はアメリカ人将軍のウィリアム・ダイ(William McEntyre Dye)であったが、「When he was in Korea, the assassination of Empress Myeongseong occurred. He received a report from Lee Hak-gyun; however, it was too late.(韓国にいたとき、明成皇后の暗殺が起こりました。彼はイ・ハクギュンから報告を受けたが、遅すぎました。)」とあるように目撃していない。14日、アメリカの『ニューヨーク・ヘラルド』は「日本人は王妃の部屋に押し入り、王妃閔妃と内大臣、女性三人を殺害した」という第一報を10日に漢城から発信したが、東京でさし止められていた、と報じた。ロシア人の御用電気技師アレクセイ・セレディン=サバチン(Алексей Середин-Cабатин)は事件を直接目撃した。それによれば、日本人壮士らが王妃のいる後宮を襲撃、女官らを引きずり出しては1階窓から投げ落とし、そこの前庭では日本人士官に率いられた日本兵が周りを囲んで見張りをしていたという。
朝鮮人内部犯行説をとなえる人たちが現れたが歴史学界は下記をもって否定している 事件の2日後の1895(明治28)年10月10日に三浦梧楼が西園寺公望外務大臣臨時代理に宛てたつぎのような電報(『日本外交文書』第28巻第1冊所収)を引用し、歴史学者は真っ向から反論している。
・・・・・過激のことは総て朝鮮人にてこれを行はわしめ、日本人はただその声援をなすまでにて手を下さざる約束なりしも、実際に臨んで朝鮮人躊躇してその働き充分ならざりし前、時機を失はんことを恐れ日本人の中にて手を下せし者ありと聞けり、もっとも右等の事実は内外人に対し厳重に秘密に致し置きたれども、その場に朝鮮人居りし由なれば漏れ聞きしことなきを防ぐ可からず・・・・・。朝鮮政府よりは日本人は殺害等乱暴の挙動は一つも無かりしとの証明書を取り置きたり、・・・・・この二件は外国人に対し水掛論の辞柄となす考へなり」
つまり、①もともとは閔妃殺害を朝鮮人に行わせ、日本人は直接には手を下さない計画だった。しかし、いざとなると朝鮮人が実行を躊躇ったので時機を逃さないよう数名の日本人が殺害に及んだと聞いている。②この件は極秘とし、朝鮮政府からは日本人が殺害に関与していないという証明書を取った。③外国人に対しては水掛け論に持ち込むことにした、というのである。
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事件後と影響
要約
視点
露館播遷
事件後、ロシアはソウルに水兵100名を上陸させ、日本と諸外国の緊張が高まるなか、ダイらアメリカ兵、ロシア代理公使ヴェーベルも関与した、カウンタークーデターとしての春生門事件が発生。翌年に高宗がロシア大使館で政務を行うようになる露館播遷へとつながっていく。
大院君と高宗の決定的亀裂
この事件を機に、殺害に関与した興宣大院君と高宗の親子間の亀裂は決定的となり、興宣大院君は失脚した。高宗は3年後(1898年)に興宣大院君が亡くなった際に略式の葬儀しか行わず、高宗自身は父親である興宣大院の葬儀に参列さえしなかった[7]。
「日本側実行犯」の子孫の謝罪
2004年に熊本出身の元教師ら20人によって「明成皇后を考える会」が結成された。同会の目的は、日本側実行犯の後裔及び関連記録の調査と殺害事件の真相究明とされる[64]。同会が2005年に行った謝罪行は、日本のドキュメンタリー番組『テレメンタリー』で「114年目の氷解〜反日感情の原点、閔妃暗殺を見つめた5年〜」と題して放送された。
2005年5月10日、事件のドキュメンタリーを制作しているプロデューサーのチョン・スウンの要請で、「明成皇后を考える会」の会員10人とともに日本側の実行犯とされる家入嘉吉、国友重章の子孫が入国し、皇后が埋葬されている洪陵を訪れ、土下座[65]して謝罪する姿を韓国の報道機関が伝えた。墓地を訪れていた閔妃の曾孫と面会したが、謝罪の言葉を受けた閔妃の曾孫は「謝罪を受ける、受けないは、自分がすることではない。政府レベルの謝罪がなければならない」と語った[66]。
このドキュメンタリー番組では「犯人は日本人」としており、「暗殺事件の犯人は朝鮮人によるものであった」という国王・高宗や王子・純宗などの証言を日本の工作とした。
犯行に使用されたとみられる凶器の市民団体の返還要求
安重根の100年目の命日にあたる2010年3月26日に曹渓宗中央信徒会と文化財返還事業を行う市民団体が発足した韓国の市民団体「肥前刀還収委員会」(崔鳳泰弁護士、ヘムン僧侶)は、櫛田神社が所蔵する、玄洋社の藤勝顕が1908年に奉納した肥前刀について、「乙未事変は韓日間の不幸な歴史の始まりだった。韓日間の恨みを触発した事件に直接使用された犯行道具がいまだ日本の神社に保管されているのは懸念すべきことだ」との声明を発表し、韓国国民の民族感情を刺激する凶器を日本は正しく処分すべきと促した[67]。刀の鞘には「一瞬電光刺老狐」と記され、また、神社には皇后をこの刀で切りつけた旨を記した文書が保管されているとし、委員会は「1895年の乙未事変から100年余りの間に発生した韓日の悲劇的な業を象徴するこの刀を、処分するか韓国に戻すべきとの立場だ。犯人が皇后殺害にこの刀を使ったと自白したにもかかわらず、日本の神社に寄贈されたまま民間が所有しているのは法的に問題だ」と主張しているという[68]。
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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