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青山忠良
江戸時代後期の大名・老中。丹波篠山藩5代藩主。従四位下因幡守、下野守。青山家宗家19代。青山忠裕の四男。江戸幕府 寺社奉行、大坂城代、老中 ウィキペディアから
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青山 忠良(あおやま ただなが)は、江戸時代後期の大名・老中。丹波国篠山藩5代藩主。官位は従四位下・因幡守、下野守。青山家宗家19代。
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生涯
文化4年(1807年)、4代藩主・青山忠裕の四男として誕生した。天保6年(1835年)、忠裕の隠居により家督を相続した。天保8年(1837年)に寺社奉行、天保11年(1840年)大坂城代に就任した。
弘化5年(1848年)、老中首座の阿部正弘が徳川斉昭を重用するのに反発し、旧縁であり斉昭に反目する水戸藩士の朝比奈某を焚きつけ、斉昭と親しい阿部を退けようと陰謀を企てたが、事前に計略が発覚し、忠良は逆に老中を辞任させられ、幕閣を追放された。
文久元年(1861年)、篠山春日神社に能舞台能楽殿を寄進した[2]。翌文久2年(1862年)隠居。家督は次男の忠敏が継いだ。
略年表
- 文化4年(1807年)4月10日、江戸に生まれる。
- 文政4年(1821年)12月16日、従五位下因幡守に叙任される。
- 天保6年(1835年)閏7月16日、父忠裕の致仕により、篠山6万石を嗣封する。
- 天保7年(1836年)6月17日、奏者番となる。
- 天保8年(1837年)5月16日、寺社奉行を兼ねる。
- 天保11年(1840年)
- 11月3日、大坂城代となり、従四位下に進む。
- 11月9日、下野守に転じる。
- 弘化元年(1844年)12月28日、老中に任じられ、侍従に陞る。
- 嘉永元年(1848年)
- 7月、病のために辞職を申し出る。
- 9月3日、辞職を許可される。
- 文久2年(1862年)2月29日、致仕。
- 元治元年(1864年)11月15日、死去。享年58。品川東海寺に葬られ、大量院殿と諡す。
逸話
系譜
ギャラリー
脚注
関連作品
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