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青山忠裕

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青山 忠裕(あおやま ただひろ / ただやす)は、江戸時代中期から後期にかけての大名老中丹波国篠山藩4代藩主。官位従四位下因幡守下野守。青山家宗家18代。

概要 凡例青山忠裕, 時代 ...

生涯

明和5年(1768年)、2代藩主・青山忠高の三男として誕生した[1]天明5年(1785年)、兄で3代藩主の忠講が嗣子なく21歳で没したため、家督を継ぐ。忠裕は、寺社奉行若年寄大坂城代京都所司代と、およそ幕閣の登竜門とされる役職を残らず勤め、文化元年(1804年)に老中に起用されて30年以上勤めるなど、文化文政期の幕閣の中心人物として活躍した。老中在任中、相馬大作事件の裁判や、桑名藩忍藩白河藩三方領知替えなどを担当した記録がある。

文政元年(1818年)、藩領の王地山に、京焼の陶工欽古堂亀祐を招いて窯を開かせる。また、内政面では地元で義民とされる市原清兵衛ら農民の直訴を受け、農民が副業として冬季になど摂津国方面に杜氏として出稼ぎすることを認めた。

文政10年(1827年)5月7日、長年の幕政での功績により、遠江国に1万石を加増された。

天保6年(1835年)に老中を辞任。隠居し家督を四男の忠良に譲る。翌天保7年(1836年)没した。

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逸話

  • 毎年春と秋に本所回向院で将軍臨席で大相撲があった。篠山藩の力士は毎年、真っ先に負け続きで忠裕はたいそう不機嫌であった。文政3年(1820年)春場所のある日、王地山平左衛門、波賀野山源之丞、飛の山三四郎、黒田山兵衛、曽地山左近、小田中清五郎、須知山道観、頼尊又史郎という8名の力士が篠山から出て来て、相撲を取らせてくださいというので忠裕が出場させたところ、全員が勝った。喜んだ忠裕が褒美を取らせようとしたところ全員どこにもおらず、後で調べたが篠山にはそんな名前の力士はいない、ただ篠山領の稲荷がまつられている地名ということがわかり、それぞれの稲荷神社へ感謝のためにのぼり絵馬を奉納したという。
  • 松平定信徳川治済大御所尊号をめぐって家斉と対立していたとき(尊号一件)、忠裕は家斉から諮問を受けた。忠裕は「上様は誠に孝心厚いことですが、国家にそのような先例は無く、故人ならまだしもご健在である治済公に追尊することは不可能なことで、越中守(定信)殿の申されることはもっともです」と答えて強く諫めたという(『続徳川実紀』)。
  • 老中職の座に通算31年3か月11日もおり、これは歴代の老中でもトップの年数である。
  • 文政10年(1827年)、朝廷では徳川家斉の太政大臣任命と徳川家慶従一位昇叙が決定され、幕府では御礼の使者として井伊直亮彦根藩主)らを派遣することになったが、朝廷では太政大臣の特殊性から御三家越前松平家クラスの派遣を求めていただけに摩擦が生じる可能性があった。このため、幕府では別に忠裕を京都に派遣することになった。6月21日に京都に到着した忠裕は閏6月1日に京都所司代水野忠邦と共に仁孝天皇に拝謁、同4日には修学院離宮を見学、翌5日には天皇と共に御学問所の南庭で行われた蹴鞠を鑑賞した。7日に京都を出立する前に仙洞御所光格上皇から別れを惜しむ言葉を掛けられたという。5年前の老中水野忠成上洛の際には修学院離宮の見学は忠成が希望して初めて実現したのに、今回は朝廷側から勧められたこと、本来の正使である井伊直亮が小御所で天皇に拝謁したのに、忠裕がそれよりも奥の御学問所に招かれていることから異例づくめの厚遇となった。これについて、竹尾次春の『松栄色』は忠裕は所司代在任経歴があり、かつ天明の大火の際にも京都に駆けつけて京都市中の警護の任に就いた功労があって朝廷からも人望があったからと述べて、忠成との待遇差を忠成にまつわる悪評と結びつける世間の風評を批判的に記している。松浦静山の『甲子夜話』も同様の趣旨を述べつつも、天明の大火の京都警護における一番の功績は松平信道亀山藩主)の筈なのに彼が早世してしまったためにその功績が全て忠裕に帰してしまったのではないかとも述べている[2]
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経歴

※明治4年までの日付は旧暦。

系譜

脚注

関連項目

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