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天領

幕府の直轄地 ウィキペディアから

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天領(てんりょう)は、江戸時代における江戸幕府直轄地。天領は俗称であり、ほかに江戸幕府直轄領徳川幕府領徳川支配地幕府領幕領など様々な呼称がある。これらの呼び名は、正式な歴史用語ではない[1]

幕府直轄領は元禄以降、全国で約400万あった。領地は日本全国に散らばっており、江戸時代を通じて何らかの形で幕府直轄地が存在したは51ヶ国と1地域(蝦夷地)に及び[2]年貢収取の対象となる田畑以外に交通商業の要衝と港湾、主要な鉱山、城郭や御殿の建築用材の産出地としての山林地帯(御林、おはやし)が編入され江戸幕府の主要な財源であった[1]

呼称について

幕府直轄地が「天領」と呼ばれるようになったのは明治時代からで、江戸時代に使われていた呼称ではない。大政奉還後に幕府直轄地が明治政府に返還された際に、「天朝の御料(御領)」などの略語として「天領」と呼ばれたのがはじまりである。その後、天領の呼称が江戸時代にもさかのぼって使われるようになった。

江戸幕府での正式名は御料・御領(ごりょう)だった。その他、江戸時代の幕府法令には御料所(ごりょうしょ、ごりょうじょ)、代官所[注釈 1]支配所(しはいしょ、しはいじょ)の呼び名もある[1]。江戸時代の地方書では、大名領や旗本領を私領としたのに対して公領・公料、また公儀御料所(こうぎごりょうしょ)という呼称もあった[1]

大政奉還後の慶応4年(1868年、同年明治元年)には徳川支配地を天領と呼んだ布告があるが、同時期の別の布告では「これまで徳川支配地を天領と称し居候は言語道断の儀に候、総て天朝の御料に復し、真の天領に相成候間」とある[1]

上記の観点から、近年は幕府の直轄地の呼称は「天領」から「幕領」と呼ぶ傾向になっている。全国の歴史教科書なども「幕領」への表記の変更が進められている[注釈 2]

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概要

天領は、豊臣政権時代の徳川氏蔵入地が基である[1]関ヶ原の戦い大坂の陣などでの没収地を加えて、元禄年間(1688-1704)には江戸幕府直轄地は約400万石となった。その地からの年貢収入は江戸幕府の財政基盤となった。天領は幕府の直轄地(幕領)であり、当時は「御料」「御蔵入」などと呼ばれており天領と呼ばれるようになったのは明治維新以降である。親藩や譜代、旗本等は徳川の一門直臣であるが、これらの領地は天領には含まない。

京都大坂長崎など重要な都市や、佐渡金山などの鉱山湯の花から明礬を生産していた明礬温泉も天領とされた。佐渡甲斐飛騨隠岐は一国まるごと天領となった。

国替改易減封無嗣断絶などによる公収がある一方で加増などで分与されるものも多く、関東では比較的まとまった領域を保持したが、それでも寺社地や旗本領、他の大名等への分与などを通じて天領は細分化され、全国を通じ村単位で保持され、散在あるいは虫食いの状態であった。旗本や公家寺社領などには多かった相給は天領には少なかったとされる。

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箱館奉行所の置かれた五稜郭(函館市)

蝦夷錦俵物の産地であった蝦夷地では、1799年寛政11年)に東蝦夷地(北海道太平洋岸および北方領土得撫郡域)が、1807年文化4年)に和人地および西蝦夷地(北海道日本海岸樺太およびオホーツク海岸)が天領となり、このとき奉行所は宇須岸館に置かれ奥羽諸藩が警固に就いた。文化6年(1809年)に西蝦夷地から、樺太が北蝦夷地として分立。松田伝十郎による改革で、山丹交易を幕府直営とした。1821年文政4年)には一旦松前藩領に復した。1855年安政2年)になると、和人地の一部と蝦夷地全土が松前藩領から再び天領とされているが、1859年(安政6年)の6藩分領以降に奥羽諸藩の領地となった地域もあった[3]箱館奉行所は、幕末元治元年(1864年)から五稜郭に置かれた。

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高山陣屋表門

幕府直轄の各領地には代官処がつくられ、郡代代官遠国奉行が支配した。ただすべての土地に奉行代官を配することは現実的ではなく、これらは預地と称して近隣の大名や旗本、遠国奉行に管理が委託された(預所)。もっとも、江戸の代官所が上野国の天領をも支配したり、桑名藩預所越後にあり、柏崎に桑名藩の陣屋が置かれるなど、天領や預所の分布は周辺のみとは限らないものであった[4]預所からの実収は幕領地総石高の六分の一に相当した[5]。観光地として有名な岐阜県高山市高山陣屋は、江戸幕府が飛騨国を直轄領として管理するために設置した代官所・郡代役所である。

江戸時代末期に老中首座となった水野忠邦は、天保の改革の一環として上知令江戸城大坂城の十里四方を天領とする)を発令したため、天領の石高は増えたが、周辺に領地を持つ大名から大きく非難された。

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天領の規模の変遷

要約
視点

豊臣政権末期には、全国検地高1850万石余の内、12.2%に相当する222万3641石余が豊臣氏の蔵入地であった。一方徳川氏の関東入国当時の蔵入地の実態は明らかではないが、所領伊豆・相模・武蔵・上総・下総・上野の六か国240万石余のうち、100~120万石が直轄化されていたと推定されている。関ヶ原の戦いののち、豊臣氏の蔵入地の接収を含む没収高622万石余が論功行賞の加増・加転に、さらに徳川一門や譜代大名の創出、直轄領の拡大に当てられているが、江戸幕府の直轄地も、初期においては豊臣氏のそれと大差なかったものと考えられ、江戸幕府成立時点で230~240万石が幕府直轄領であったと考えられる。

上方・関東の天領の石高・年貢高に関しては、向山誠斎著『癸卯日記 四』所収の「御取箇辻書付」により享保元年(1716年)から天保12年(1841年)までの年度別の変遷が古くより知られていたが、さらに大河内家記録「御取箇辻書付」[6]の発見により、17世紀中頃からの天領の石高の変遷が明らかになった。それによれば、天領の石高が初めて300万石を超えたのが徳川家綱政権下の万治3年(1660年)だが、寛文印知の前後には300万石を切り、延宝3年(1675年)に至って再び300万石台を回復し、以降300万石を下回ることはない。徳川綱吉政権下になると大名改易による天領石高の増加が著しく、元禄5年(1692年)に初めて400万石を突破し、宝永6年(1709年)以降400万石を下回ることはない。徳川吉宗政権下では無嗣断絶による公収が相次ぎ、享保16年(1731年)には450万石に達し、延享元年(1744年)には江戸時代を通じて最大の463万4076石余となった。その後徳川御三卿が相次ぎ分立することにより、延享4年(1747年)以降天領の石高は減少する。宝暦13年(1763年)から寛政5年(1793年)まで430万石台を維持した後、寛政7年(1795年)~寛政10年(1798年)には再び450万石台に戻るが、その後徐々に石高は減少し、天保9年(1838年)には410万石台に落ちる。天保以降では文久年間の石高の数字が残っており、幕末まで410万石台を維持したと考えられる。

なお個々の年度の石高は史料によって異なり、例えば元禄7年(1694年)の天領総石高は、『癸卯日記』所収の「御取箇辻書付」では395万5560石余とあるのに対し、『近藤重蔵遺書』所収の「御蔵入高並御物成元払積書」では418万1000石余と20万石以上の差がある。また天保9年(1838年)の天領総石高は『癸卯日記』所収の「御取箇辻書付」では419万4211石余とあるのに対し、『天保九年戌年御代官並御預所御物成納払御勘定帳』では419万1968石6斗5升8合9勺9才、天保12年(1841年)の天領総石高は『癸卯日記』所収の「御取箇辻書付」では416万7613石余とあるのに対し、同じ向山誠斎の著作である『丙午雑記』所収の「天保十二丑地方勘定下組帳」では412万2044石3斗0升8合9勺8才と、微妙に数字が異なる。

以下に『大河内家記録』と『癸卯日記』所収の「御取箇辻書付」による天領の石高・年貢高の変遷の詳細を示す。譜代の大名や旗本への加増・改易・減封や臨時の役知の支払いは天領を切り崩して行われるため、天領の所領・石高は年度毎に必ず変動する[7]

さらに見る 和暦年 / 西暦年, 石高 (石余) ...

注釈

  1. 慶安4年(1651年)~承応2年(1653年)分は「関東分御勘定帳無之」とあり、上方分のみの集計かつ年貢の米納・金納の内訳不明。
  2. 承応3年(1654年)、明暦元年(1655年)分は「御勘定帳無之」とあり、石高・年貢高不明。
  3. 明暦2年(1656年)、寛文元年(1661年)、延宝元年(1673年)、延宝2年(1674年)分は「上方御勘定帳無之」とあり、関東分のみの集計。
  4. 元禄9年(1696年)~正徳元年(1711年)分は「内訳無之」とあり年貢の米納・金納の内訳不明。
  5. 大河内家記録「御取箇辻書付」では、享保元年(1716年)分が米107万4003石余、享保3年(1718年)分が米112万7189石余、享保7年(1722年)分が米111万5514石余、享保8年(1723年)分が米105万0911石余、享保13年(1728年)分が米118万1658石余、宝暦6年(1756年)分が米133万0262両余、天明7年(1787年)分が年貢高此取146万8770石余となっている。
  6. 大河内家記録「年々御取箇辻書付」では天明元年(1830年)分が年貢高此取156万5836石余、天明4年(1784年)分が高436万0520石余、寛政元年(1789年)分が年貢高此取156万5836石余、寛政2年(1790年)分が年貢高此取142万3687石余となっている。
  7. 文化5年(1808年)分は神宮文庫「勘定出納大略」では米185万1226石余となっている。
  8. 天保13年(1842年)の分は勝海舟編『吹塵録』所収「天保十三年全国石高内訳」により、年貢高は不明。

日本全国の総石高に占める天領の割合は、慶長10年(1605年)における日本全国の総石高2217万1689石余に対して推定230~240万石であり、10.4~10.8%となる。また元禄10年代(1697年~1703年)の全国の石高(元禄国絵図・郷帳高)2578万6929石余に対して約400万石であり、15.5%となる。[7]さらに天保期における日本の天保年間の総石高(天保国絵図・郷帳高)は3055万8917石余と算出されているが、勝海舟編『吹塵録』所収「天保十三年全国石高内訳」によると、1842年(天保13年)の天領は総石高の13.7%に当たる420万石弱を占めた。

さらに見る 類別, 石高 ...

注釈

  1. 寺社名義の所領のうち幕府による年貢取立の対象になっていない土地。
  2. 転封などの際に、知行高は変らないのにもかかわらず新旧所領の年貢率の違いによって領主が実質的減収となってしまう場合、特別に加増された石高。
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天領の内訳の変遷

要約
視点

徳川の関東入国直後には、直轄領は関東総奉行や代官頭によって支配されていたが、慶長年間に関東総奉行や代官頭が消滅後は、その配下の代官・手代衆が昇格して天領支配を担当するようになった。天領の管轄は当初江戸(関東)と京都・大坂(上方)に二分されていたが、寛永19年(1642年)に勘定頭が設置されると、司法・行政区域が統一され、地方の支配組織は老中→勘定奉行→郡代・代官への系統へと整備されるようになった。また江戸時代の当初から遠隔地の都市・港・鉱山には遠国奉行が置かれていたが、これらも老中支配下に統合された。

これとは別に大名に支配を委ねた大名預地があった。豊臣政権の太閤蔵入地が形を変えたもので、徳川綱吉による幕府支配機構の整備と強化のもと、貞享4年(1687年)に廃止されたが、元禄4年(1691年)には復活した。さらに正徳2年(1712年)には財政立て直しのために再び新井白石により大名預地は廃止されて代官の直支配となったが、年貢収納率の低下を招いたため、享保7年(1722年)に再び徳川吉宗により大名預地は復活した。

天領は当初関東と上方の二分に分けられていたが、享保2年(1717年)以降、関東・海道・北国・東国・畿内・中国・西国の七筋に区分されるようになった。[1]

18世紀以降の天領の石高における内訳の変遷は以下の通りである[8][9]

さらに見る 内訳, 元禄15年 (1702年) ...
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関連用語

  • 領分(藩) - 石高1万石以上の大名が知行する領地(大名領)。
  • 知行所 - 石高1万石未満の旗本が知行する領地(旗本領)で、大名の「〜藩」とは区別して「〜領」と呼んだ。
  • 禁裏御料 - 天皇上皇 (院)女院の財政基盤となった御料地
  • 公家衆家領 - 公家宮家の財政基盤となった料所
  • 朱印地 - 由緒ある寺院神社に幕府が特例の朱印状をもって付与した所領で、表向きには公領扱いのため領内で幕府の代官が年貢を取り立てることもあった。
  • 寺社除地 - 寺社名義の所領のうち寺社が占有的に支配する権限を得た私領で、幕府への年貢も免除され収益は全て寺社のものとなった。

幕末の天領

要約
視点

地方区分は現代のもの。人名は代官を務めた旗本

北海地方

いずれも箱館奉行の「御預所」。戊辰戦争箱館戦争)後の令制国およびをカッコ内に記す。

奥羽地方

戊辰戦争(東北戦争)後の令制国をカッコ内に記す。

関東地方

北陸・甲信地方

東海地方

畿内近国

山陽・山陰地方

四国地方

九州地方

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脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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