トップQs
タイムライン
チャット
視点
麻生実男
ウィキペディアから
Remove ads
麻生 実男(あそう じつお、1937年12月17日 - 1991年11月22日[1])は、広島県福山市出身(出生地は旧満州)で、主に1960年代前半に活躍したプロ野球選手(内野手)である。右投げ右打ち。
1960年の大洋ホエールズV1戦士の一人で、勝負どころで快打を連発し、大洋のセ・リーグ初優勝に貢献した[2][3][4]。
Remove ads
経歴
1937年(昭和12年)12月17日、旧満州に生まれ、1944年に福山市に移る。盈進商業高等学校(現・盈進高等学校)では、1954年に秋季中国大会まで進むが、1回戦で倉吉東高に敗れる。翌1955年春季山陽大会でも1回戦で防府商に完封負け。高校同期に神原隆彦、石川恵也がいた。
卒業後は倉敷レイヨンに入社。1957年の都市対抗にチーム初出場。1回戦では川島紡績を延長16回の末に降し、日本生命との2回戦では伊藤芳明から2点本塁打を放つなど5打点の活躍で勝ち上がる。準々決勝に進むが、熊谷組の森永勝治に先制打を許し、リリーフ・大沢貞義の好投に0-5と抑えられ敗退[5]。同年にデトロイトで開催された第3回世界野球大会に森永らとともに社会人野球日本代表として出場[5]、日本の優勝に貢献した。
1959年に、当時の大洋ホエールズに入団。新人ながら開幕から遊撃手、一番打者として起用される。ミートが上手く岩本堯とともにチャンスメーカーとして活躍するが、守備に難があり27失策。このため1960年に監督に就任した三原脩から「お前の守りで金は取れないがバットなら金になる」と得意の打撃を活かすよう助言される[2][6]。「三原魔術」・「超二流選手」を体現する一人。打ち出した“分業システム”で開幕当初は攻撃重視の遊撃手として先発で起用された。守備重視の場合は岩岡保宏や浜中祥和が遊撃手に入った。6月に近鉄バファローから鈴木武が移籍してからは、主に代打の切り札として起用され大洋初優勝に貢献した。シーズン通算打率が.254に対して代打率.308とレギュラー起用時よりも打率が跳ね上がり「元祖・代打専門選手」と呼ばれた[2]。しかし同年の大毎オリオンズとの日本シリーズでは4連勝したこともあり、第2戦で1打席に代打で起用されたのみにとどまる。その後も代打では無類の勝負強さを発揮し、1962年には代打専門としては史上初めてオールスターゲームに出場している[4]。当時中日ドラゴンズ監督だった杉下茂は、「ショートで出ている時と目つきが違っていた。代打で麻生が出ると独特のオーラがあり、投手は震え上がった」と語っている。
タイ・カッブ型グリップを2つ重ねた独特のグリップエンドのバットを使用[2]。ケージに立てかけていたこのバットに三原が目を留め、代打専門を思いついたといわれる[4]。美津和タイガー野球博物館に実物が保存されている。
郷里・福山に戻り健康飲料会社を経営したが失敗[1]。その後は岡山に移り、西大寺で保険のセールスマンとして勤める傍ら、リトルリーグの指導を続けた[1]。
Remove ads
人物
当時としては珍しい打力のある攻撃型ショートだったが、先述の通り守備に難があった上に弱肩であったため、監督の三原によって代打専門を命じられる事になった。三原マジックとして語られる以下のような逸話がある。1点リードされて8回裏、三原は守備の上手くない麻生を代打に送り、そのまま9回表の守備に付かせた。エラーする可能性があったが、三原は9回裏に同点としてツーアウト満塁になるとちょうど麻生に回ってくると計算していた。するとその通りの展開に。麻生がサヨナラヒットを放ちチームは劇的勝利した[3]。
詳細情報
年度別打撃成績
大洋が初優勝した1960年は特に巨人戦で打ち、代打率.577を記録。サヨナラ犠飛も記録している
記録
- オールスターゲーム出場:1回 (1962年)
背番号
- 12 (1959年 - 1965年)
- 10 (1966年)
出典
参考文献
関連項目
外部リンク
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads