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1977年南アフリカグランプリ

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1977年南アフリカグランプリ
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1977年南アフリカグランプリXXIII South African Grand Prix )は、1977年F1世界選手権の第3戦として、1977年3月5日にキャラミ・サーキットで開催された。

概要 レース詳細, 日程 ...

このレースはマーシャルのフレデリック・ジャンセン・ヴァン・ヴーレンとシャドウをドライブするトム・プライスが死亡した事故で知られる。また、2週間後に飛行機事故で死亡したホセ・カルロス・パーチェにとっても最後のレースとなった。

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レース概要

ジェームス・ハントがポールポジションを獲得、ホセ・カルロス・パーチェが2番手、ニキ・ラウダが3番手と続いた。スタートでハントが先行、パーチェと先頭争いを繰り広げ、ラウダとジョディー・シェクターが続いた。このオーダーが7周目まで続いたが、ラウダがトップに立つとその座を譲ることはなかった。シェクターは11周目にハントを捉え2位に立った。

21周目にレンツォ・ゾルジのシャドウがエンジントラブルを起こし、2人のマーシャルがコースを横切って車に近づいた。2番目のマーシャル、フレデリック・ジャンセン・ヴァン・ヴーレンがトム・プライスの車にはねられ即死した。彼が持っていた消火器がプライスの顔面に激突、プライスも即死した。

レースは継続し、ラウダが優勝した。前年の恐ろしいクラッシュ以来の優勝であった。地元ドライバーのシェクターが2位、6輪ティレルのパトリック・デパイユが最終周回でハントを抜いて3位に入った。

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結果

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トム・プライスの死

22周目にシャドウレンツォ・ゾルジがエンジントラブルのためリタイア、コース左脇に車を停止させた。間もなくエンジンから火が出る。この非常事態に2人の若いマーシャルが消火器を持ってコースを横切って近づこうとした。まさにその時、ハンス=ヨアヒム・スタックマーチと、トム・プライスのシャドウが現場に近づいた。スタックはかろうじて1人目のマーシャルをかわしたが、スタック車に視界を遮られていたプライスは対処する間もなく2人目のマーシャル、19歳のフレデリック・ジャンセン・ヴァン・ヴーレンと衝突した。

ほぼ全速で衝突した瞬間、ヴァン・ヴーレンの体は引き裂かれて宙に舞い、彼は即死した。同時にヴァン・ヴーレンの持っていた消火器がプライスの頭部に激突した。消火器はプライスのヘルメットを割り、衝撃で顎紐がヘルメットの残りを引きはがし、消火器が切断寸前まで首に食い込んだ。プライスのシャドウはそのままメインストレートを走行した。車は結局ジャック・ラフィットリジェに接触した後第1コーナーでコースを外れ停止した。この事故の全容が放送クルーによって撮影された[1]

ジャンセン・ヴァン・ヴーレンの遺体は激しく損壊し判別不能だったため、レースディレクターはコースマーシャルを全員呼び出し、その中にヴァン・ヴーレンがいなかったため、身元が特定された。

余波

2人が死亡したこの事故は悲しみで伝えられた。ティレルのメカニック、トレヴァー・フォスターは遠方からこの事故を目撃し、その様子を後に語っている。

私はプライスのチームメイトの車がコース脇に停止し、小さな火が見えたのを鮮やかに思い出す。次に思い出すのはトムの車がストレートをやってくるのが見えたことだ。そして、予想よりも速いスロットルの瞬間的なリフトを覚えている。そして、私は何かが車から飛び上がるのを見た。それは悲劇的にも、マーシャルであることが分かった。[2]

デヴィッド・トレメイン(モータースポーツジャーナリスト)は、事故の余波として不信と恐怖を思い出す。

悲劇はそれ自体 - 全くの偶発であるが - 取るのが難しく、まだ存在する。人はその怒りの焦点を誰かに合わせる傾向がある。そして、その焦点は長い間、コースを横切ったジャンセン・ヴァン・ヴーレンと呼ばれた19歳の少年に合わせられていた。

事故の様子は記録映画『F1グランプリ 栄光の男たち』に収められている。

第3戦終了時点でのランキング

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参照

関連項目

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