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クレイ・レガツォーニ
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ジャンクラウディオ・ジュゼッペ・"クレイ"・レガッツォーニ(Gianclaudio Giuseppe "Clay" Regazzoni, 1939年9月5日 - 2006年12月15日)は、スイスのレーシングドライバー、元F1ドライバー。「レガッツォーニ」・「レガゾーニ」とも表記される。1970年のヨーロッパF2選手権チャンピオン。
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プロフィール

1960年代にF2で活躍した後1970年にフェラーリでF1デビューした。その後1980年に事故で負傷するまでの11年間、フェラーリ、BRM、フェラーリ、エンサイン、シャドウ、ウイリアムズ、エンサインと移籍した。F3時代、ガードレールの下に潜りこんだにもかかわらず、生還した事がある。
レガツォーニはマシンが葉巻形からくさび形、さらにはウイングカーへとめまぐるしく変化し、それぞれの車両特性も全く異なる1970年代のF1でコンスタントに活躍した。 レガツォーニが11年間で記録した勝利は5勝であるが、1974年にはエマーソン・フィッティパルディとチャンピオン争いをしている。この年も1勝しか上げていないが、レガツォーニは確実に上位入賞を果たす堅実なドライブであった。
1979年には新興のウィリアムズにF1初勝利をもたらした。
1980年のアメリカ西GPで、レガツォーニはコーナー直前でブレーキペダルが折れるという事態に遭遇してクラッシュし、下半身不随になる重症を負うが、とっさにギアを3速に入れ、エンジンスイッチを切って減速させ、さらにリタイアしていた車にぶつけて衝撃をやわらげるという一連の操作で一命を取りとめた。レガツォーニはこれ以来車椅子生活を強いられることとなったが、両手のみで全ての操作ができるように改造された車両で、ダカール・ラリーやセブリング12時間のようなトップレベルのレースに復帰した初のドライバーとなった。
日本車とも縁があり、ホンダ・NSXでサーキットを駆る様子が後にホンダのテレビCMで披露されている(外部リンク参照)。またチームを率いていすゞのワークスチームとしてファラオ・ラリーに参戦し、ディーゼル車クラスで1位(ドライバーはエディ・オリオリ)を獲得している[1]。
2006年12月15日、レガツォーニはイタリアのパルマ近郊の高速道路(アウトストラーダ)でクライスラー・ボイジャーを運転中にトラックとの衝突事故を起こし、没した[2]。67歳没。
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エピソード
ウィリアムズに初優勝をもたらした1979年イギリスグランプリの表彰台では、シャンパンではなくコカ・コーラの商品であるLiltというジュースで勝利を祝った。これは当時、ウィリアムズのスポンサーにはサウジアラビア航空などのアラブ系のスポンサーが多かったことからきており、スポンサー達はこの振る舞いに感銘を受けたという。
10歳年下のチームメイトのニキ・ラウダに、「女性に対して振る舞うのと同じくらい緊張して車を運転していたら、決してビッグな選手にはなれないよ」と話していた[3]。
カーナンバー(F1)
ナンバーが固定となった1973年以降のみ。
- 19(1973年第1~13.15戦)
- 11 (1974年.1975年)
- 2(1976年第1~10.12~16戦)
- 22(1977年)
- 17(1978年)
- 28(1979年)
- 14(1980年第1~4戦)
レース戦績
略歴
- ‡ : グレーデッド・ドライバーの対象になるためポイントは加算されない。
ヨーロピアン・フォーミュラ2選手権
- 太字はポールポジション、斜字はファステストラップ。(key)
- ‡ : グレーデッド・ドライバーの対象になるためポイントは加算されない。
ル・マン24時間レース
フォーミュラ1
フォーミュラ1 (ノン・チャンピオンシップ)
インディアナポリス500
BMW・M1・プロカー・チャンピオンシップ
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脚注
関連項目
外部リンク
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