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24の前奏曲とフーガ
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24の前奏曲とフーガ(英: 24 Preludes and Fugues、露: 24 прелюдии и фуги) 作品87 は、ドミートリイ・ショスタコーヴィチが作曲した、24のすべての調性を網羅した前奏曲とフーガからなるピアノ曲集[1][2]。本作品は1951年2年25日[3]に完成し1952年12月に初演された[4][5]。 この曲集はソ連のピアノ音楽を代表する作品として名高いほか[6]、20世紀のピアノ・レパートリーとしても[7]、ヒンデミット『ルードゥス・トナリス』[7]、メシアン『鳥のカタログ』[7]、リゲティ『練習曲』[7]、グアルニエリ『ポンテイオス』[7]などの、他の大規模な作品群や曲集と並ぶ[7]多声的作品。
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概要
要約
視点
着想と完成
1950年7月にショスタコーヴィチは、J.S.バッハの没後200年を記念して、ライプツィヒで開催された第1回国際バッハ・コンクールの審査員に選ばれ[4]、ソ連代表団長として参加した[8][9]。この記念祭にバッハの作品を多く聴いたことと[5][10]、バッハ・コンクールに優勝したソ連のピアニスト、タチアナ・ニコラーエワ[註 1]の演奏に深く感銘を受けたことが[11]、この作品を作曲するきっかけとなった。
ショスタコーヴィチは、当初は自身のピアノ演奏の技術を完成させるための多声的な練習曲として着想していた[5][10]。しかし記念祭を通して受けた印象をもとに構想が次第に大きくなり、途中からバッハの『平均律クラヴィーア曲集』にならって、全ての調性を網羅する大規模な連作として作曲することに決定した[5]。早速1950年10月10日から作曲に着手し[1]、前奏曲とフーガのどちらかを平均3日にひとつの早さ[12]で番号通りの順番[1]で作曲し(第16番の前奏曲は清書の際に差し替えられた[13])、翌1951年2月25日に全曲が完成した[1][3]。1曲完成するたびに、ニコラーエワを自宅に招き、完成したばかりの前奏曲とフーガをそれぞれ自分の演奏で聴かせた[11][14][15]。
審議と批判
作曲家同盟の審議会における、本作品の演奏と出版の許可の合否の判定をするための試演は、1951年3月31日に前半が、後半は同年5月16日に、それぞれショスタコーヴィチ自身の演奏によって[1][16][17]行われた(譜めくりはニコラーエワが担当した[18])。
試演の直後(5月16日)に行なわれた作曲家同盟での討議では[16]、当局から、コスモポリタン的傾向[19]、形式主義的傾向[註 2][4][19]があり、「ロシア的多声音楽の伝統に、現代の活力を吹き込み復活させることに失敗し[20]」「構成主義者的複雑、陰鬱、個人主義的孤高に陥っており[20]」「『森の歌』の準備として機能しておらず[21]」「変ニ長調の醜いフーガは形式主義者のカリカチュア[21]」「病的で陰鬱で不健康な感情を表現している[22]」「広く普及させる価値がない[22]」「過去の過ちを繰り返すな[23]」などとして、極めて厳しい批判[註 3]を受けた。
批判の背景
これらの批判の背景として試演の3年前、1948年2月10日の 全連邦共産党 (ボリシェヴィキ)中央委員会政治局決議『V.ムラデリのオペラ「偉大なる友情」について[24]』において、ショスタコーヴィチは形式主義者だと、党中央より公然と名指し筆頭で攻撃され[註 4](ジダーノフ批判)、同年4月の作曲家同盟第1回総会にて自己批判したものの[註 5][25]、二つの音楽院の教授職を解雇されるなどし[註 6]、その後、表面上は当局からの批判に反しない形でプロパガンダ映画音楽を多く発表し[註 7]、オラトリオ「森の歌」[註 8]ではスターリン国家賞1位を受賞した[26]。その一方、これらの公的なプロパガンダ的な音楽とは別に、私的な現代的で芸術的な純音楽とでは音楽語法を使い分けるようになっていき[註 9][26]、特に私的な芸術的作品群は「発表を"避けて"」いた[註 10][註 11][註 12][26]。
以上のような背景があり、作曲家同盟からすれば、プロパガンダ映画音楽や政治的オラトリオの制作により、イデオロギー的更生をなしているかにみえたショスタコーヴィチが新たに提出してきた作品が、プロパガンダ色の全く欠けた純音楽的で器楽的な芸術的性質の大作であったため[註 13]、前述のような厳しい批判をまねいた[21][27]。
賞賛と支持
だが、当局からのこれらの厳しい批判、および、政治的状況を十分に認識しているにもかかわらず、マリヤ・ユーディナ[註 14][4][28]、エミール・ギレリス[28]、ゲンリフ・ネイガウス[4][28]、ニコラーエワ[29][30]らのピアニストからは絶大な支持を受けた。
ユーディナは、1951年5月16日作曲家同盟での審議会に直接かけつけ、ポリフォニーは不要との当局からの批判にたいして、それは議論にも値しない子供の戯言だと否定し[31]、ショスタコーヴィチの本作品に関する業績の重要性を評価する際に、イデオロギー的な基準ではなく、何より芸術的な理想を基準にすべきだと情熱的に主張し[32]、真の英雄的功績であるこの作品は[33]世界中のピアニストによって演奏されることになるだろう[34]とも述べた[註 15]。
当初この曲集は当局から、出版の許可も公開演奏の許可もおりなかったが[35]、作品の原稿は手書きの写しの形で演奏家の間に広まり[36]、ギレリス、ネイガウス、ニコラーエワが演奏を開始し、すぐにユーディナ、マリヤ・グリンベルク、スヴャトスラフ・リヒテルらが続いた[37]。ギレリスは1951年12月にヘルシンキとミンスクで抜粋を演奏し[38]、さらに1952年1月5日にはモスクワで、1952年2月にはストックホルムとイェーテボリでも抜粋を演奏した[28]。
ネイガウスは1952年5月に同僚への手紙でこの曲集について(6曲しかまだ手元になく、残りを書き写す時間がとれないとした上で)「すばらしい音楽。音楽の『感情』だけではなく『知性』も愛する者たちは、純然たる豊穣の只中にいるのです」と書いた[39]。
初演と出版
ニコラーエワが、1952年の夏の終わりに、ショスタコーヴィチのモスクワ不在を確認したうえで、芸術問題委員会[註 16]に直接赴いて、自らの責任で本作品を演奏したところ、当局の好意的な反応を得て[30]、1952年12月、この作品の全曲演奏と出版が当局より正式に認められた[40]。出版は1952年、モスクワの国立音楽出版所[5](ムズキーズ(Muzgiz)社1952年[1]、再版は1956年[41])。
ニコラーエワによれば、ショスタコーヴィチは本曲集をニコラーエワに献呈した。だがそれは、二人だけの秘密であり、出版された版には献呈文は印刷されていない[42]。
全曲公開初演はニコラーエワによってレニングラードのグリンカ・コンサートホール[2]において1952年12月23日と12月28日の2日間で行われた[1][4][5][43]。公開初演の準備にはショスタコーヴィチも直接加わり、発想記号の必要箇所などについてニコラーエワとともに検討し、その一部は自筆譜に反映させた[1]。自筆譜はグリンカ記念ロシア国立中央音楽文化博物館に保管されている[1]。
最後の逸話
ショスタコーヴィチは亡くなる1週間前、ニコラーエワに電話で、ヴィオラ・ソナタが完成したので、誕生日に初演されるコンサートで前奏曲とフーガを弾いてほしいという依頼をしたが[44]、コンサートのときショスタコーヴィチはもういなかった。
1975年8月14日、モスクワ音楽院の大ホールで催されたショスタコーヴィチの市民葬で、ニコラーエワはショスタコーヴィチのハ長調の前奏曲とフーガを演奏した[45]。
広がり
これらのピアニストたちはこの曲集を積極的に演奏してその普及に貢献し、やがてロシアのみならず、広く世界のピアニストたちの重要なレパートリーとして定着した[46]。ショスタコーヴィチも愛奏し、この曲集からの抜粋を何度も自作自演にて録音している[47]。
また本作品の抜粋の編曲として、作曲者によって二台のピアノのために編曲されたほか、オルガン用、アコーディオン用、バヤン用 、カリヨン用、コントラバスとピアノ用、弦楽四重奏用、サクソフォン四重奏用、オーボエ・クラリネット・アルトサクソフォン・バスーン用、ヴィオリンアンサンブル用、室内合奏用、オーケストラ用などがある[2]。
全曲録音
ピアノによる全曲録音には2022年現在、以下がある。
1962年 タチアナ・ニコラーエワ、1975年 ロジャー・ウッドワード、1987年 ニコラーエワ、1990年 ニコラーエワ、1991年 キース・ジャレット、1992年 ニコラーエワ、1992年 ボリス・ペトルシャンスキー、1992年カロリーネ・ヴァイヒェルト 、1996-1998年 ウラジミール・アシュケナージ、1999年 コンスタンティン・シチェルバコフ、2006年 ムーザ・ルバッキーテ[46][48]、ボリス・ペトルシャンスキー、2008年 デイヴィッド・ジャルバート[49]、2008年-2009年 アレクサンドル・メルニコフ[50]、2008年 コーリ・ボンド[51]、2009年 ジェニー・リン[52]、2009年 コリン・ストーン[53]、2015年 クレイグ・シェパード[54][55]、2017年 ピーター・ドノホー[56]、2021年 イゴール・レヴィット[57]、2022年 ハンネス・ミンナール[58]、2025年ソフィア・サッコ[59]、2025年ユリアンナ・アヴデーエワ[60]。
アレクサンドル・メルニコフによる全曲録音は、BBCミュージックマガジンが2012年1月に選出した『史上最高の録音50選(The 50 greatest recordings of all time)』の一つに選出されている[61]。
自演録音
本作品が、公式出版についての話もまだないころ、1951年12月ショスタコーヴィチは、ソビエト国家ラジオアーカイブ用にいくつかの前奏曲とフーガをスタジオ録音する機会を得た[62]。ショスタコーヴィチ自身の演奏により、1951年12月6日に前奏曲とフーガの第1、3、5、23番が、1952年2月5日に第2、4、12、13、20、24番が、1952年2月14日に第6、7、8、14、22番の録音が行われ、四年後の1956年前後に第17番と第18番の録音も行われた[62]。短期間に24の前奏曲とフーガのうち16曲が録音されており、ショスタコーヴィチの当初の意図は全曲録音の完成だった[62]。録音は1958年まで続いたが、その年の5月初旬には右手の症状が進行したため、ピアノ演奏を中断せざるをえず、全曲録音は完成しなかった。しかしこれらの録音には、テンポ、ダイナミクス、タッチの選択に作曲家の感情と意図とが強く表現されている[62]。
1960年には、六つの前奏曲とフーガが発売され、1971年にはメロディアレーベルがさらに二つの前奏曲とフーガ(第1番と第24番)を発売したほか、そのほとんどは、1976年の彼の死後に発表され、ショスタコーヴィチの残した自作自演の録音の完全なセットは、1997年から1998年にかけて、イギリスを拠点とするロシア・レヴェレーション・レーベルより発表された[62]。
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構成
要約
視点
24組の前奏曲とフーガからなり、全曲の演奏時間は約2時間32分[2]。
※タチアナ・ニコラーエワ(Николаева, “Прелюдии и фуги” 281–82.)による難易度
構成
バッハの『平均律クラヴィーア曲集』では、同主調の"前奏曲とフーガ"同士が短二度ごとに上昇[63]していく。一方、ショスタコーヴィチの本作品では、平行調の"前奏曲とフーガ"同士が完全五度ずつ上昇していき五度圏に沿ってすべての調性を周回[64]する。 フーガ第1、2、3、4、6、7、9、11、12、13、15、16、17、18、19、20、21、22番では主音から始まるが、第5、10、14、23、24番は5度から始まる。フーガ第8番だけが3度から始まる[65]。また、第4と24番のフーガのみが二重フーガである[2]。
ミシュラは、主声部の再登場によって示される展開的な変奏部があると指摘し、例外を除けば、6番の前奏曲に顕著なように、少なくとも3箇所の繰り返しがあり、これらの構造により、最終的にショスタコーヴィチは、厳密に支配された和声構造を用いることなく、形式的な展開を作り出す自由を得たとする[66]。
パークは、前奏曲とフーガはすべて、前奏曲の最後にアタッカで橋渡しされるように、互いに有機的に関連しており、前奏曲の主題がフーガでは複数の声部に操作される。前奏曲は、個々の曲として、またフーガの序奏として、等価な役割を果たす。さらに いくつかのフーガの特徴は、前奏曲の雰囲気とは対照的で、それぞれの前奏曲とフーガが切っても切れない関係にあり、個々の前奏曲は、フーガを設定するだけでなく、独自の音楽的特徴を持つ個々の曲として際立っており、フーガがその答えを示し、物語全体を締めくくるかのようだとし、また、民俗的な要素を含むさまざまなソースから転用された、高度に練り上げられた統一的なアイデアを用いているとしているとしている[67]
演奏に関する意図
ショスタコーヴィチは、1951年5月16日の作曲家同盟での審議会で「私はこの曲をサイクルとは考えていない。最初から最後の前奏曲とフーガまで演奏する必要はない。私の意見では、これは本質的なものではなく、むしろ作品を害する可能性さえある。したがって、6曲のグループ、あるいは3、4曲を演奏するのがより正しいだろう。この曲は、1つの曲が他の曲の後に続かなければならないようなサイクルではない。これは単なるピアノ曲の集まりであって、全体がつながっている作品ではない[68]」と述べた。
ニコラーエワは一方、ショスタコーヴィチの死後に「 強調しなければならないのは、ショスタコーヴィチがこの作品を全曲、1つのサイクルとして演奏することを意図していたということだ。別々に演奏すると、曲は「ディヴェルティメント」の性格を帯びてしまう[69]」と述べている。ニコラーエワはその言葉通り実際に本曲集の全曲録音を、1962年、1987年、1990年[46]、1992年[48]に行っている。
曲調
全体の曲調は穏やかで平明な雰囲気が支配的であるが、力強い部分や、深く物思いにふけるような部分も見られる。また、オラトリオ『森の歌』の主題が所々顔を出すが、これはジダーノフ批判を受けた以降の中期作品の特徴でもある。
プルタロフは、この曲集の全体的な特徴を、内向的、内省的、告白的と表現している[70]。
マズロは、さまざまな「時代」のロシアの国民性を多面的かつ全面的な形で国民性を喚起しているとしている[71]。
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各曲
第1曲 ハ長調
第2曲 イ短調
第3曲 ト長調
- [前奏曲]
- [フーガ]
- 前奏曲と対照的に軽妙な主題。古典舞曲のジーグに近いリズム[73]。豊富な跳躍、速い音階など、バロック・クラヴィーアの妙技を駆使したこの風変わりな曲は、前奏曲の重厚さと厳しさとはまったく対照的で、バッハの速いフーガ(『平均律クラヴィーア曲集』第1巻のト長調フーガなど)やドメニコ・スカルラッティの数々のソナタやフーガを彷彿とさせる[79]。
第4曲 ホ短調
第5曲 ニ長調
第6曲 ロ短調
第7曲 イ長調
第8曲 嬰ヘ短調
- [前奏曲]
- ユダヤ民謡の要素が用いられている。旋律線の強い和声的な曖昧さと反復的なスタッカートの伴奏が、舞曲的なムードという様式的な傾向を助長している[75]。またそのユダヤ的クレズマー風が、ショスタコーヴィチのピアノ三重奏曲第2番作品67のフィナーレの第1主題と結びついている。どちらの作品でも、踊りのようなリズムと内面の悲しみや傷つきやすさが手を取り合っている。また、この前奏曲は、その2年前に完成した「乙女の歌」(歌曲集『ユダヤの民俗詩より』作品79の第10番)と同じように、穏やかな温かさと苦しさが融合している[76]。
- [フーガ]
- この物悲しいフーガは、歌曲集『ユダヤ民謡詩集』作品79の「小さな子供の死を嘆く」や「長い別れの前に」に見られるような、圧倒的な情感の深さを持っている。音楽的素材、特に主題は、旋律的にもリズム的にも「ユダヤ音楽の伝統の中で最も高尚な形式、平日の朝の礼拝のハザヌートの旋律」に根ざしている[76]。
第9曲 ホ長調
- [前奏曲]
- [フーガ]
- 直接的なテクスチュアやリズムの参照ではないものの、バッハの2声のホ短調フーガを反映しているといえる[79]。旋律線は、前奏曲の無伴奏オクターヴとは対照的であるが、フーガの跳躍する声部は、前奏曲の冒頭の旋律線から変化したものである[75]。本曲集中で唯一の2声のフーガである。バッハの『平均律クラヴィーア曲集』第1巻の2声のフーガホ短調と平行調であるのは単なる偶然だろうか。その結果、抗いがたい活力と生きる喜びに満ちたユーモラスなスケルツォが生まれた[76]。
第10曲 嬰ハ短調
- [前奏曲]
- 『平均律クラヴィーア曲集』変ホ長調の前奏曲と同じテクスチュアを反映している[66]。バッハ『二声のインベンション』第1曲との類似が感じられる[73]。
- [フーガ]
第11曲 ロ長調
- 前奏曲とフーガを統一するために、フレーズの途中で連続的なアイディアを用いている[65]。
- [前奏曲]
- [フーガ]
第12曲 嬰ト短調
- [前奏曲]
- [フーガ]
第13曲 嬰ヘ長調
第14曲 変ホ短調
- [前奏曲]
- この曲集の中で最も優れた完成された作品として知られる。左手で奏されるトレモロにより模される鐘の響きが、右手で歌われるヴィリーナ風旋律と結合し、悲劇的な効果を高めるのに成功している[73]。ショスタコーヴィチのピアノ曲は、交響曲とは異なり、国家的大惨事の情景を描くことはほとんどない。しかし、この擬似即興的な前奏曲とショスタコーヴィチの『24の前奏曲』における変ホ短調の前奏曲とは、彼の交響曲の大作によく見られる「悲劇的」な特徴を含んでいる。アレクサンドル・ニコライエフはこう書いている、「冒頭の低音オクターヴのトレモロは、鐘の音のような陰鬱で不安な響きがある。この執拗な鐘の音に加わる旋律的な声は、警戒、嘆き、痛み、怒りのイントネーションを持つ、声楽的というよりむしろ宣言的な性質を持っている[76]。
- [フーガ]
- ロシア民謡『乙女の嘆き』の性格を示し、前奏曲の悲劇的な内容を受けて、合唱風な音の構造で応答しているような形式になっている[73]。このフーガの親密で詩的な性格は、ショスタコーヴィチの『4つのプーシキン独白曲』作品91(1952年)の第2曲「私の名前に何が?」 ( 1952 ) のフーガが変ホ短調、という調性が共通しており、さらに、打ち解けたメランコリックなムードも似ている。
第15曲 変ニ長調
- 前奏曲の冒頭とフーガの中間部で示されるリズムの動きを共有している[75]。
- [前奏曲]
- ワルツの形式[73]。ショスタコーヴィチがタチアナ・ニコライエワのためにこの前奏曲を初めて弾いたとき、彼女は「その大胆さ、勢い、そして辛辣な性格に驚嘆した」というが、長年ソ連の学者たちは(本心かどうかは別として)、この曲を単純で気楽なワルツだと考えていた。 この作品は確かにワルツのジャンルに属するが、普通のワルツではない。とらえどころのないサブテキストを知る最良の手がかりは、1974年にショスタコーヴィチが作曲した「レビャードキン大尉の4つの詩」作品146にある。フョードル・ドストエフスキーのテクストに基づいてバスとピアノのために作曲された。この曲集の第1曲「レビャードキン大尉の愛」には、この前奏曲からの直接の引用が含まれている。ショスタコーヴィチによるレビャードキンの性格の解釈は、おそらくこの前奏曲にも当てはめることができるだろう。レビャードキンの性格には、非常に多くの滑稽さがあるが、もっと不吉な要素もある[76]。
- [フーガ]
第16曲 変ロ短調
第17曲 変イ長調
- [前奏曲]
- [フーガ]
第18曲 ヘ短調
- [前奏曲]
- [フーガ]
第19曲 変ホ長調
- [前奏曲]
- [フーガ]
第20曲 ハ短調
- 前奏曲とフーガは、全体として同じアイデアを共有している。前奏曲の主要主題は、フーガの主要主題の輪郭を描いている[75]。
- [前奏曲]
- [フーガ]
第21曲 変ロ長調
第22曲 ト短調
第23曲 ヘ長調
- [前奏曲]
- [フーガ]
第24曲 ニ短調
- [前奏曲]
- [フーガ]
- 全24曲の悼尾を飾るこのフーガは他のものと異なって特別の構成をとり、二つの明確に対立する主題をもっている。はじめヴィリーナ風旋律により4声のフーガが繰り広げられるが、次第に速度を速め4声のリチェルカーレで発展し、力強い楽想に盛り上がったところで、二つの主題を和声的に処理したものが重なり合わり壮大な二重フーガを展開し、マエストーソになってクライマックスにたっし、堂々と全曲を閉じる[73]。フーガの主旋律は、前奏曲の中間部から直接引用されている[75]。 これは本曲集の2つの二重フーガのうちの1つである。もうひとつは4番ホ短調である。しかし、多くの類似点があるにもかかわらず、ニ短調のフーガの方がはるかに記念碑的である。マイク・ソーンのコメントによれば、前奏曲の最後の和音が消え去った後、フーガは、今ではほとんどおなじみとなったが、別の控えめな反芻主題として始まる。そして加速する回想的な走行主題の導入とともに訪れる。この明らかな間奏曲から、残りは発展していく。緊張のどうしようもない高まりを通して、前へ、そして上へ。マエストーソの終結のために、フーガと前奏曲は巨大なクライマックスで融合する [76]。
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脚注
参考文献
関連作品
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