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伊号第百六十四潜水艦

日本の潜水艦 ウィキペディアから

伊号第百六十四潜水艦
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伊号第百六十四潜水艦(いごうだいひゃくろくじゅうよんせんすいかん)は、日本海軍潜水艦伊百六十二型潜水艦(海大IV型)の3番艦。竣工時の艦名は伊号第六十四潜水艦。改名は戦没以後(亡失認定前)であり、伊164としての実際の活動は行っていない。

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艦歴

要約
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  • 1927年(昭和2年)3月28日 - 呉海軍工廠で起工。
  • 1929年(昭和4年)10月5日 - 進水
  • 1930年(昭和5年)8月30日 - 竣工。佐世保鎮守府籍となり第29潜水隊に編入[2][3]
  • 1934年(昭和9年)3月20日 - 予備艦となる[3]
  • 1938年(昭和13年)6月1日 - 艦型名を伊六十一型に改正[4]
  • 1939年(昭和14年)3月1日 - 予備艦となる[3]
  • 1940年(昭和15年)3月20日 - 第29潜水隊(伊61伊62、伊64)は佐世保で第三予備艦となる[5]
  • 1941年(昭和16年)12月5日 - 第5潜水戦隊第29潜水隊に属し、三亜を出航。マレー作戦に参戦[2]
  • 1942年(昭和17年)1月7日 - カムラン湾を出航し、スマトラ南方海面で活動[2]
    • 1月22日1630 - 北緯01度43分 東経90度13分パダン西方600浬地点付近のインド洋で、ボンベイからスマトラへ航行中の蘭貨物船バン・オーバーストレーター(Van Overstraten、4,482トン)へ魚雷2本を発射するも命中しなかった。そのため、浮上して砲撃。これによりバン・オーバーストレーターは大破し、放棄された。漂流する同船へ3番発射管から魚雷1本を発射し、これを撃沈[6]
    • 1月28日 - 北緯10度12分 東経80度13分のインド洋で、英船アイダー(Idar、391トン)を砲撃により撃破[6]
    • 1月29日 - 北緯12度55分 東経80度33分マドラス南西15浬地点付近で米客船フローレンス・ルッケンバッハ(Florence Luckenbach、4,988トン)を雷撃により撃沈[6]
    • 1月30日 - 北緯12度59分 東経81度00分のインド東方沖合で印貨物船ジャラタン(Jalatarang、2,498トン)を砲雷撃により撃沈[6]
    • 1月31日 - 北緯13度00分 東経81度08分の地点で、印貨物船ジャラパラカ(Jalapalaka、4,215トン)を砲撃により撃沈[6]
    • 2月5日 - ペナン[2]
    • 3月6日 - ペナンを出航し、インド洋方面で活動[2]
    • 3月10日 - 第29潜水隊が解隊し、第30潜水隊に編入[2]
    • 3月13日 - 北緯14度00分 東経81度47分のマドラス北東150浬地点付近で、コロンボからカルカッタへ航行中のノルウェー貨物船マベラ(Mabella、1,513トン)を砲雷撃により撃沈[6]
    • 4月2日 - ペナン出航[2]
    • 4月12日 - 佐世保入港[2]
    • 5月16日 - 佐世保出航。ミッドウェー海戦に参加のためクェゼリンに向けて航行[2]
    • 5月17日 - 九州南方沖(北緯29度25分 東経134度09分)で司令塔に日の丸を掲げて浮上航走中、米潜水艦トライトンに発見される。トライトンは日の丸に照準を合わせて魚雷を発射。魚雷の命中を受け、艦体の一部は30メートルも吹き飛んだあと、艦尾から沈没[2]。生存者が周辺に漂流していたが、トライトンは15日に撃沈したトロール船船員を収容していて余裕がなく、救助はしなかった[7]。そのため、艦長の新名嘉雄少佐以下81名全員が戦死した[3]
    • 5月20日 - 伊号第百六十四潜水艦に改名。
    • 5月25日 - 四国南方で亡失と認定[8]
    • 7月14日 - 除籍

撃沈総数5隻、撃沈トン数17,696トン。撃破総数1隻、撃破トン数391トン。

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歴代艦長

※『艦長たちの軍艦史』430頁による。階級は就任時のもの。

艤装員長

  • 駒沢克己 少佐:1930年3月1日 - 1930年4月10日

艦長

  • 駒沢克己 少佐:1930年4月10日 - 1932年12月1日
  • 藤谷安宅 少佐:1932年12月1日 - 1933年11月15日
  • 大竹寿雄 少佐:1933年11月15日 - 1936年2月15日
  • (兼)藤井明義 少佐:1936年2月15日 - 1936年3月10日
  • 浜野元一 少佐:1936年3月10日[9] - 1936年5月5日[10]
  • (兼)藤井明義 少佐:1936年5月5日[10] - 1936年6月30日[11]
  • 藤井明義 少佐:1936年6月30日 - 1937年11月15日
  • 殿塚謹三 少佐:1937年11月15日 - 1937年12月15日[12]
  • 山田隆 少佐:1937年12月15日 - 1939年3月10日
  • (兼)花房博志 少佐:1939年3月10日[13] - 1939年3月20日[14]
  • 花房博志 少佐:1939年3月20日[14] - 1940年3月20日[15]
  • 小川綱嘉 少佐:1940年3月20日[15] - 1940年7月26日[16]
  • (兼)河野昌通 少佐:1940年7月26日[16] - 1940年10月30日[17]
  • 小川綱嘉 少佐:1940年10月30日[17] -
  • 新名嘉雄 少佐:1942年4月1日 - 1942年5月17日戦死
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脚注

参考文献

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