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南部利謹

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南部利謹
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南部 利謹(なんぶ としのり)は、江戸時代中期の陸奥国盛岡藩の世嗣。通称は三郎。官位従四位下信濃守

概要 凡例南部利謹, 時代 ...

経歴

8代藩主・南部利雄の長男として誕生。母は前田吉徳養女(前田利章の長女)・弓。は嵩信、のち利謹。利雄の嫡子であり、盛岡藩嗣子となる。附役は用人の葛西正兵衛や伊東清作、下斗米小四郎が兼務する。

宝暦11年(1761年)2月15日、10代将軍徳川家治御目見する。同年12月18日、従五位下・信濃守に叙任する。安永3年(1774年)11月18日、公的には病気を理由に嫡子の地位を辞退する。実際には乱行を理由に廃嫡された。代わりに旗本であった分家の利正が父・利雄の養嗣子となる。廃嫡後は盛岡で生活する。

人物と廃嫡の理由

父の利雄が別名を「惣四郎様(そうしろうさま)」(家臣が進言すると何でも「そうしろ」と答えたという)と呼ばれたのと違い、文武両道で覇気のある人物であった。しかし、田沼意次に取り入り幕閣にのし上がろうと野望を抱き、本藩に知らせず独断で政界工作を行っていた事実が露見したため、これに驚いた父・利雄が幕府に「病気のため湯治させる」と申し出て盛岡に連れ戻し、利謹は廃嫡された。

側室の「るん」を溺愛し、るんの死後はその母親まで妾にするなど、常軌を逸した入れ込みようであった。その後「るん」に瓜二つであった町人の妻(於米之方、油御前)を強引に側室にした。

江戸住みの頃は、昼間から側室の部屋に入り浸り、情事にふけるなど、非常に好色であった。

また寛政2年(1790年)に盛岡藩を旅した高山彦九郎は領民から、若殿(利謹)に政務を批判された役人たちが讒言して押し込めた、という話を聞いたと記している[1]。なお、子の利済は父である利謹の一字である「謹」を自身や子につけている。

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系譜

  • 父:南部利雄(1724-1780)
  • 母:弓 - 前田吉徳養女、前田利章の長女
  • 正室:麻姫 - 黒田継高の六女
  • 側室:るん
  • 側室:於米之方 - 清鏡院、石原氏。側室で利済生母である石原氏(清鏡院)は俗称「油御前」といわれる庶民出の女性で、塗師の寡婦であり、利謹の死後に聖寿寺に出家し、妙白尼と称した。

脚注

参考文献

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