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牧野貞長
江戸時代中期の大名 (1733-1796) ウィキペディアから
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牧野 貞長(まきの さだなが)は、江戸時代中期の大名。奏者番、寺社奉行、大坂城代、京都所司代、老中。常陸笠間藩主。成貞系牧野家5代。官位は従四位下・侍従、備中守、備後守。
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略歴
牧野家4代の牧野貞通の五男として江戸藩邸に生まれる[1]。幼名は道五郎といい、のちに沢翁(たくおう)と称す[1]。
五男であったが、長兄の忠敬が越後国長岡藩主となり、次兄の貞隆が早死したので、寛延2年(1749年)に継嗣となり家督相続した。宝暦9年(1759年)に奏者番となり、安永6年(1777年)に大阪城代、天明元年(1781年)に京都所司代と累進した[1]。天明4年(1784年)から寛政2年(1790年)にかけての7年間、老中として江戸幕府の枢機に参画した。政治的知見は父・貞道に譲らず卓抜で、物事の決断を明確に処理し、稀に見る為政者であると尊敬され、老中在任中は極めて適切な政策を次々と立案・進言したので、将軍徳川家治・家斉からの信頼も深かったといわれる[1]。また、慈愛心が深い人物で、閣老であったときに多くの孝子・義僕を表彰した[1]。
寛政8年(1796年)9月、64歳で病没した。江戸深川の要津寺に埋葬されたが、現在は改葬して笠間市笠間の盛岸院にある[1]。
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年表
系譜
父母
- 牧野貞通(父)
- 佐藤氏 - 側室(母)
正室
- 松平乗祐の次女
側室
- 間宮氏
子女
脚注
参考文献
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