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百済王郎虞

飛鳥時代から奈良時代の貴族。従四位下・摂津亮 ウィキペディアから

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百済王 郎虞(くだらのこにきし ろうぐ)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての貴族。名は良虞とも記される。小紫・百済王昌成の子。官位従四位下摂津亮

概要 凡例百済王郎虞, 時代 ...

経歴

朱鳥元年(686年天武天皇の葬儀において、祖父・百済王善光の代理としてを宣べる[1]持統天皇5年(691年)正月の宴において、祖父の善光と弟の南典と共に優(賑わしくする物)を与えられている[2]

大宝元年(701年大宝令における位階制度の制定を通じて従五位上に叙せられ、大宝3年(703年伊予守に任ぜられる。和銅8年(715年正五位上霊亀3年(717年従四位下元正朝末から元明朝初頭にかけて昇進し、時期は不明ながら摂津亮を務めた。

天平9年(737年)7月17日卒去。最終官位は散位従四位下。

藤原武智麻呂が大宝4年(704年)に大学助に任ぜられた際、大学頭は百済王郎虞であり、当時遷都などの影響で衰退していた大学寮を充実したという話が残る。武智麻呂は慶雲3年(706年)大学頭に昇進しているため、郎虞が大学頭だったとするなら、任期はこの年以前までと考えられる。

官歴

続日本紀』による。

系譜

脚注

参考文献

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