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複数の国の君主位に同一人物が兼ねて君臨する体制 ウィキペディアから
同君連合(どうくんれんごう)は、複数の君主国の君主が同一人物である状態・体制のことである。同君連合の形態は大きく2つに分けることができる。同君連合の各構成国がそれぞれ独立した主権をもち続ける人的同君連合 と、各構成国を超えた中央政府が置かれて一元的にコントロールされる物的同君連合 の2つである。
人的同君連合は、複数の独立した君主国の君主が「たまたま」同一人物になっただけにすぎない。それゆえに、人的同君連合の構成国の政府はおのおの独立したものとして存立し続ける。
ヨーロッパでは、各国の王侯の通婚がしばしば行われたため、ある国の君主位継承者に別の国の君主やその一族がなっている場合が多々あった。具体的には、1714年から1837年の間、イギリス(グレートブリテン王国)とハノーファー(選帝侯国、後に王国)の君主位が兼ねられていた事例がある。1714年にイギリス女王のアンが子供を持たないまま死去すると、アンの遠縁にあたりイギリス王家の血を引くハノーファー選帝侯ゲオルクが、選帝侯の身分を兼ねたままイギリス国王ジョージ1世として即位したのである。しかしながら、この王位継承によってイギリスとハノーファーが両国に共通する政府を設けるということはなかった。
現存のものでは、イギリス国王と英連邦王国の諸国王やアンドラ共同公などが同君連合の例であるが、いずれも政府は独立しており、それぞれ独立国である。
物的同君連合では、各構成国をまとめる中央政府が設立される。この中央政府の権限は事例によりまちまちであるが、外交、軍事および財政の権限が付与される場合が多い。このように外交の権限が中央政府に与えられた場合、この同君連合は国際法上の主体となり、条約などを締結できるようになる。逆に言えば、このような場合においては、同君連合の各構成国は国際法上の主体性が著しく制限される。また、内政分野においても各構成国の権力行使が制限され、中央政府に委ねられることが多い。
具体的には、1867年から1918年にかけて、(いわゆる)オーストリア帝国とハンガリー王国が同君連合になっていた例(オーストリア=ハンガリー二重帝国)が挙げられる。オーストリア皇帝がハンガリー国王を兼ねていたのであるが、オーストリア政府とハンガリー政府の上に共通政府が置かれて、同君連合全体の外交・軍事・財政などを管轄した。
以上とは逆のケースとして
629年(貞観3年)、太宗皇帝は出兵し、630年(貞観4年)には突厥の頡利可汗を捕虜とした。これにより突厥は崩壊し、西北方の遊牧諸部族が唐朝の支配下に入ることとなった。族長たちは長安に集結し、太宗皇帝に天可汗の称号を奉上する。天可汗は北方遊牧民族の君主である可汗よりさらに上位の君主を意味する称号であり、唐の皇帝は、中華の天子であると同時に北方民族の首長としての地位も獲得することとなった。
ホンタイジは1635年にモンゴル遠征を行い大ハーンの称号を獲得した。1636年にはホンタイジは大元皇帝の玉璽を手に入れたことを機に、満州族・漢族・モンゴル族の三族から推戴を受けた。すなわち大ハーン・大王から正式に大清皇帝となり、国号を大清国とし、併せて崇徳と改元した。
イングランドは王朝が断絶した時に国外から王を迎えたことが多かったため、同君連合の形態が多い。イングランド法では、各国における国王の法人格がそれぞれ独立している。
北欧の諸民族は文化的、言語的にきわめて近く、同一民族であるとする考えもある(19世紀にはドイツのように統一国家になることが真剣に検討されたほどである)ため、同君連合の形態が多い(汎スカンディナヴィア主義)。例えばドイツなどにおいて、領邦の封建領主が断絶したときに、領邦内の有力者を後継者とするより、ドイツ内の別の封建領主を後継者とすることが多かったことに似ている。実際には北欧においても、ドイツ系諸侯が国王に迎えられたことが少なくなかった。
1415年に時の神聖ローマ皇帝ジギスムントからブランデンブルク選帝侯位を授けられたホーエンツォレルン家は、一族の1人が1525年に世俗化したプロイセン公国の君主となった。1618年、プロイセンのホーエンツォレルン家が断絶し、ブランデンブルク選帝侯ヨーハン・ジギスムントがプロイセン公を継承した。以後は両国を合わせてブランデンブルク=プロイセンと言う。ホーエンツォレルン家は1701年にプロイセン王の称号を獲得、その後強大化し、ドイツ統一の中心となって、1871年にドイツ帝国の皇帝となった。
スペイン王国そのものもカスティーリャ王国、アラゴン王国、レオン王国、ナバラ王国、カタルーニャ君主国などの同君連合によって成立しており、カルロス1世からイサベル2世までの歴代の諸王は、正式にはそれら全ての君主であることを称していた(イサベル2世 (スペイン女王)#称号を参照)。ハプスブルク家によるスペインとポルトガルの同君連合も、スペインによるポルトガルの併合というよりは、カスティーリャを中心とする連合王国にポルトガルも加わったという側面が強い。また、スペイン(エスパーニャ)という国名はラテン語のヒスパニアに由来し、元来はポルトガルを含むイベリア半島全域を指す地域名であった。
イタリアはエチオピア侵攻後、同国に東アフリカにあった自国の植民地であるエリトリア・ソマリランドも含めてイタリア領東アフリカ帝国と呼称し、イタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世が皇帝を兼ねた。ただしエチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世はこれを認めず、国際連盟においても見解が分かれた。アルバニアもエチオピアもイタリアの傀儡国家や植民地に過ぎず、第二次世界大戦でファシスト政権が敗北すると共に崩壊した。
ハプスブルク家は『戦は他人にさせておけ、幸いなるオーストリアよ、汝は結婚せよ』という言葉が残されているほど、婚姻によって獲得した君主位、所領が非常に多かった。基本的には(オーストリア大公国の君主としての)「オーストリア大公」となった者が神聖ローマ皇帝、ハンガリー王、ボヘミア王、ブルゴーニュ公などを兼ねたが、時代によってはこれらの地位を次期大公位継承者などに与えていたこともある。
ハプスブルク家がこのように多くの王位や爵位を併せ持ったのは、ヨーロッパにおいて王国や諸侯領の統治権がその王位や爵位に属しているという観念によるものである。合理的に(そして合法的に)当該国・地域の統治権を得るために当該国・地域の王位・爵位を手に入れることが重要であった。中国における王侯はこれに近く、家柄や血筋ではなく領土に付属する称号を名乗ることが多かった。ただし複数の称号を帯びることは稀であった。また江戸時代以前における日本では、領土と家名は独立しており、家名を継承することが一般的であった。
以下にカール5世とオーストリア=ハンガリー皇帝の例を挙げる。カール5世だけは神聖ローマ皇帝(オーストリア大公)の他にスペイン王を兼ねており、その他膨大な数の称号を持っているが、有名無実なものも多い。その後、ハプスブルク家はオーストリア系とスペイン系に分かれてそれぞれ、オーストリア大公位とスペイン王位を継承していく。オーストリア・ハプスブルク家は東に勢力を拡大し、ハンガリー王位、ボヘミア王位などを併せていく。なお、これらの王国は18世紀末まで選挙王制であったため、婚姻関係は被選挙権をもたらすものでしかなく、加えて在地の貴族層にいかに認められるかが重要であった。神聖ローマ帝国の解体以降は、オーストリアの君主号を皇帝に昇格させたため、オーストリア皇帝がボヘミア王、ハンガリー王その他を兼任して継承した。
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