高安城
奈良県平群町と大阪府八尾市にまたがる高安山にあった古代山城 ウィキペディアから
奈良県平群町と大阪府八尾市にまたがる高安山にあった古代山城 ウィキペディアから
高安城(たかやすじょう/たかやすのき)は、奈良県生駒郡平群町と大阪府八尾市にまたがる、高安山[1]の山頂部にあったとされる日本の古代山城。
『日本書紀』に、「大和国の高安城(たかやすのき)、讃岐国山田郡の屋嶋城、対馬国の金田城を築く」と、記載された城である[注 1]。
白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した大和朝廷は、倭(日本)の防衛のため、対馬~畿内に至る要所に様々な防御施設を築いている。古代山城の高安城は、667年(天智天皇6年)、金田城・屋嶋城とともに築かれた[2][3]。また、高安城は、国土の領域を守る最前線の金田城、瀬戸内海の制海権を守る屋嶋城とともに、政権基盤の宮都を守る重要なポイントであった[4]。
高安城が築かれた標高487メートルの高安山は、奈良県と大阪府の県境の生駒山地の南端部に位置する。山の南の大阪湾に注ぐ大和川は、奈良盆地を遡り、支流の飛鳥川は宮都の飛鳥京に至る[1]。
山頂周辺は、大阪平野側の西斜面は急峻で、東斜面は標高400メートルほどの多数の尾根が谷を抱える地形である[1]。また、山頂部の眺望は良好で、大阪平野・明石海峡ほかの大阪湾と、飛鳥京ほかの奈良盆地が視野に入る。
高安城は、史書にその名がみえるものの、明確な遺構・遺物は未発見である。1978年(昭和53年)、「高安城を探る会」が山中で礎石建物跡を発見し、一躍注目される存在となる。発見された礎石建物跡6棟のうちの、2号と3号の礎石建物の発掘調査は、8世紀前期の建物と推定される。その後も、大阪府や奈良県が推定地内で発掘調査を実施しているが、明確な遺構は確認されていない。また、高安城の外周城壁ラインの推定範囲を最初に提示した関野貞の他、城の範囲に諸学説があり、古代山城の高安城の具体像は、まだ解明されていない[5]。
2007年、神籠石を有する自治体が光市(石城山神籠石)に参集し、「第一回 神籠石サミット」が開催された。「第4回 神籠石サミット」が開催された後、他の古代山城を有する自治体が加わり、2010年より「古代山城サミット」へと展開されている[6]。
山頂の西側の大阪管区気象台 高安山気象レーダー観測所は、四国・中国・紀伊半島など、半径約300キロメートルの気象を観測する。
『日本書紀』に記載された、白村江の戦いと、防御施設の設置記事は下記の通り。
『日本書紀』と『続日本紀』に記載された、高安城の関連記事は下記の通り。
遺構に関する内容は、概要に記述の通り。
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