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シャルル・ミュンシュ(Charles Munch, 1891年9月26日 - 1968年11月6日)は、当時ドイツ帝国領であったアルザス地方ストラスブールに生まれ、のちフランスに帰化した指揮者。
ルーテル教会のオルガニストで合唱指揮者のエルンスト・ミュンヒの息子として生まれる。一族には音楽家が多く、おじのオイゲン・ミュンヒ、従弟のハンス・ミュンヒ、兄のフリッツ・ミュンヒは共に指揮者である。またシャルルの姉のエマはアルベルト・シュヴァイツァーの弟パウル・シュヴァイツァーと結婚した。
ミュンヒ家はドイツ系のアルザス人であり、第一次世界大戦後アルザスがフランス領に戻った際、いったんはドイツ国籍を選択するが、のちナチスの台頭を嫌いフランスに帰化した。出生名の綴りはCharles Münchで、1940年初頭からウムラウトを外してMunchと綴るようになったという通説もあるが、実際には1940年代を通じてウムラウトを付けたり付けなかったりで一定せず、1946年の署名でもウムラウトを付けていたことが指摘されている[1]。
ヴァイオリンを学び、1926年にはライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の奏者となった。ゲヴァントハウス管弦楽団で1932年まで楽長のフルトヴェングラーやワルターの下でコンサートマスターを務める。ゲヴァントハウスではドイツ語でカール・ミュンヒ(Carl Münch)と呼ばれていた[1]。
1929年にパリで指揮者としてデビュー、後にネスレの創業者の孫娘ジュヌヴィエーヴ・モーリイ (Geneviève Maury) と結婚する。1937年にパリ音楽院管弦楽団の指揮者となって、1946年まで在任した。
1949年にボストン交響楽団の常任指揮者に就任、1962年までその座にあって、数々の演奏を行った。1960年にボストン交響楽団、1966年にフランス国立放送管弦楽団と来日、単身では1962年に日本フィルハーモニー交響楽団を指揮するために来日している。1970年にも来日する予定であったが、死去により叶わなかった。1967年にパリ管弦楽団が組織された際には初代の音楽監督に就任したが、翌年同団とともに演奏旅行中、アメリカのリッチモンドのホテルで心臓発作のため急逝した。77歳没。
ミュンシュは、長い指揮棒を風車のように振り回す情熱的な指揮ぶり、爆発的な熱気あふれる音楽表現で高い人気を誇った。また、即興の名手であり、大の練習嫌いとしても知られている。仮に綿密なプローベをしたとしても、本番中悪魔のような笑みを浮かべつつ練習とは全く違う指示を出すことも多かったとも言われている。ミュンシュと数多く共演したウィーン・フィルの第二ヴァイオリニストで楽団長も務めたオットー・シュトラッサーは、同じく即興の大家で練習嫌いであったクナッパーツブッシュとの共通点を指摘している[2]。
生涯のほぼ半分ずつを、それぞれドイツ人とフランス人として送ったミュンシュは、両国の音楽を共に得意とした。長いコンビだったボストン交響楽団との演奏がRCAレーベルに、晩年のパリ管弦楽団との録音がEMIレーベルに主として残されている。特にパリ管弦楽団との録音における、ベルリオーズの『幻想交響曲』とブラームスの第1交響曲のレコード・CDは評価が高い。ボストン交響楽団とも、ドイツ音楽ではベートーヴェン、シューベルト、メンデルスゾーンなど、フランス音楽ではベルリオーズ、フランク、サン=サーンス、ショーソン、ドビュッシー、ラヴェルなどに名盤を遺した。
特記なきものはボストン交響楽団、ステレオ録音
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