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東京都杉並区の町名 ウィキペディアから
杉並区北部に位置する。北辺は早稲田通りを境に上井草に、西辺は青梅街道を境に善福寺に、南部は桃井に、東辺は環八通りを境に清水に、それぞれ接している(地名はいずれも杉並区)。東西に長い長方形状の区域で、東から順に一丁目から四丁目までが並んでいる。
町域内は主に住宅地として利用されている。また、今川には中央大学杉並高等学校と都立農芸高等学校が置かれている。
住宅地の地価は、2024年(令和6年)1月1日の公示地価によれば、今川2-3-6の地点で45万4000円/m2となっている[5]。
1645年(正保2年)、今川直房(今川義元の曾孫)に対し、多摩郡井草村(江戸時代初期、上井草村・下井草村に分割)・上鷺宮村(現:中野区上鷺宮一帯)および豊島郡中村(現:練馬区中村一帯)が知行地として与えられた。以後、この地域は幕末まで今川氏の所領であった。今川氏の菩提寺として庇護を受けた観泉寺は、その知行地支配の拠点でもあった。観泉寺境内には今川氏歴代当主の墓所(都旧跡)がある。
1889年(明治22年)の町村制施行により、東多摩郡井荻村の一部となった。1896年(明治29年)に東多摩郡は豊多摩郡、1926年(大正15年)7月1日に井荻村は町制施行して井荻町となる。1932年(昭和7年)、豊多摩郡井荻町は東京市に編入され、杉並区の一部となったが、この際、観泉寺周辺に今川町という町名が生まれている。この「今川町」の一部は現在上井草に編入されている。
1964年(昭和39年)9月1日、住居表示実施に伴い、現在の今川一丁目から四丁目が編成された。旧地名では、沓掛町・中通町・神戸町・柿ノ木町・四宮町・今川町・三谷町・新町の各一部に当たる。
二丁目にある観泉寺は、江戸時代に当地を治めた高家旗本・今川氏ゆかりの寺院で、本堂(1764年(明和元年)再建)は杉並区最古の木造建築である。「今川」の地名はこれに因んでいる。
2024年(令和6年)3月1日現在(杉並区発表)の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
国勢調査による人口の推移。
国勢調査による世帯数の推移。
区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2016年1月時点)[12]。
町域内には鉄道駅が置かれていない。 町域在住の住民の認識では概ね東日本旅客鉄道(JR東日本)の中央本線(中央線快速、中央・総武緩行線)の荻窪駅、西荻窪駅が最寄駅という認識が根付いており、西武新宿線・井荻駅、上井草駅、上石神井駅(練馬区)も利用される他、荻窪駅、西荻窪駅、井荻駅、武蔵関駅、石神井公園駅等を発着する関東バス、西武バスのバス路線が多く利用されている。
2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[13]。
丁目 | 事業所数 | 従業員数 |
---|---|---|
今川一丁目 | 35事業所 | 219人 |
今川二丁目 | 54事業所 | 522人 |
今川三丁目 | 93事業所 | 1,387人 |
今川四丁目 | 47事業所 | 289人 |
計 | 229事業所 | 2,417人 |
経済センサスによる事業所数の推移。
経済センサスによる従業員数の推移。
1928年(昭和3年)、東京府立農芸学校(現:東京都立農芸高等学校)が当地に移転した。1935年(昭和10年)には旧制目白中学校が当地(当時・杉並区中通町)に移転し、杉並中学校(現:中央大学附属中学校・高等学校)に改称した。旧制杉並中学校の跡地には現在中央大学杉並高等学校がある。
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