奥宮正武
ウィキペディアから
ウィキペディアから
奥宮 正武(おくみや まさたけ、1909年(明治42年)7月27日 - 2007年(平成19年)2月22日)は、日本の海軍軍人、航空自衛官。海兵58期。最終階級は海軍中佐、空将。高知県出身。航空主兵論の急先鋒であり、戦艦無用論を主張した。
1909年(明治42年)7月27日、高知県に父・奥宮正治と母・虎の三男として生まれる。生家は土佐藩藩校の教授であった奥宮慥斎の本家になる。母は土佐の旧家である入交家の出身。市岡中学卒を経て、1926年(大正15年)11月、海軍兵学校58期入校。1930年(昭和5年)11月、海軍兵学校卒業。1932年(昭和7年)4月、海軍少尉任官。
1933年(昭和8年)11月、海軍練習航空隊第24期飛行学生を卒業、大村海軍航空隊付(延長教育を受ける)。また、後に関衛らと急降下爆撃の教育を受けた。同月海軍中尉に進級。1934年(昭和9年)11月、空母「龍驤」乗組。1936年(昭和11年)11月、大村空分隊長。同12月、海軍大尉に進級。
1937年(昭和12年)12月、第十三航空隊分隊長。支那事変に参加。12月12日、パナイ号事件を起こし、同月17日に海軍大臣から譴責を受けた。
1938年(昭和13年)3月、鹿屋海軍航空隊分隊長。同年4月、横須賀海軍航空隊分隊長に異動。同年9月に試験飛行中の空中火災事故により重傷を受け、1939年(昭和14年)2月まで入院した。
1938年11月、当時海軍次官であった山本五十六中将夫妻の媒酌により乃婦子と結婚。1939年6月、練習航空隊高等科学生を拝命。1940年(昭和15年)1月、霞ヶ浦海軍航空隊分隊長兼教官。11月、谷田部海軍航空隊飛行隊長。
1941年(昭和16年)7月、第11連合航空隊参謀。10月、海軍少佐に進級。12月、太平洋戦争勃発。1942年(昭和17年)4月、第四航空戦隊航空参謀。6月、AL作戦に参加。7月14日、第二航空戦隊航空参謀。南太平洋海戦参加。1943年(昭和18年)9月1日、第26航空戦隊参謀。1944年(昭和19年)7月20日、第25航空戦隊航空参謀。「あ」号作戦に参加。同年8月24日、軍令部12課丁部員に着任。同年11月1日、海軍中佐に進級。1945年(昭和20年)6月、大本営綜合部編制班部員(航空関係)。
1945年8月、終戦。同年11月、予備役に編入。のち、公職追放となる[1]。
追放解除後の1954年(昭和29年)8月10日、航空自衛隊に入隊(1等空佐)。航空幕僚監部付、統合幕僚会議事務局第2班長。1956年(昭和31年)7月10日、防衛研修所所員。1957年(昭和32年)7月1日、原隊復帰。同年9月1日、航空自衛隊第2操縦学校長兼宇都宮基地司令。1958年(昭和33年)2月16日、空将補に昇任。1959年(昭和34年)6月1日、航空総隊司令部付。1959年(昭和34年)8月1日、航空幕僚監部人事教育部副部長。1959年(昭和34年)9月1日、航空幕僚監部人事教育部教育第1課長事務取扱兼任。1960年(昭和35年)4月20日、航空幕僚監部人事教育部教育第1課長事務取扱解任。1961年(昭和36年)1月16日、第3航空団司令兼小牧基地司令。1962年(昭和37年)7月16日、航空自衛隊第2術科学校長。1963年(昭和38年)3月16日、航空自衛隊幹部学校副校長兼市ヶ谷基地司令。1963年(昭和38年)8月1日、保安管制気象団司令。1964年(昭和39年)7月6日、退官(空将に特別昇任)。
その後は松下電器産業(現・パナソニック)に勤務。1974年(昭和49年)国際PHP研究所顧問。
2007年(平成19年)2月22日、満97歳で没。叙・従四位。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.