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明治時代に操業を開始した福岡県北九州市にある世界遺産・近代化産業遺産としての製鉄所 ウィキペディアから
官営八幡製鐵所(かんえいやはたせいてつしょ、かんえいやわたせいてつしょ、旧字体:官營八幡製鐵所󠄁、The Imperial Steel Works, Japan[注釈 1])は、1901年(明治34年)の明治時代に操業を開始した福岡県北九州市の製鉄所。1887年(明治20年)に操業を開始した釜石鉱山田中製鉄所(岩手県釜石市)に続き、日本国内で2番目の製鉄所である。第二次世界大戦前には日本の鉄鋼生産量の過半を製造する国内随一の製鉄所で、鋼板類や条鋼類、兵器材料の特殊鋼など多品種の鋼材を製造していた。
1934年(昭和9年)には官営製鉄所が中心となって民間業者と合同して日本製鐵が発足。同社の八幡製鐵所となった。現在は後身企業のひとつである日本製鉄の九州製鉄所八幡地区の一部となっている。
2007年に構成資産のいくつかが経済産業省の「近代化産業遺産」に認定された。さらに2015年には、旧本事務所、修繕工場、旧鍛冶工場(福岡県北九州市)、および遠賀川水源地ポンプ室(福岡県中間市)の4資産が「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」(全23資産)の構成資産として世界遺産に登録されている。
明治政府の殖産興業のスローガンの元、日清戦争の前から製鉄所の国内建設が要望されていたが、第1次松方内閣が1891年(明治24年)の第二回帝国議会に建設予算を提出した時は莫大な予算がかかることから否決されていた[4][5]。 1895年(明治28年)に製鉄事業調査会を設置して調査を開始し、「製鉄所は官営とする。原料は豊富。製鉄・鉄鋼の試験結果も良好」との結果を報告、さらに調査中に日清戦争が発生し、早急に軍器独立の必要が生じた。実際日清戦争に勝利した直後1896年(明治29年)の日本国内の鉄需要は銑鉄六万五千トン、鋼材二十二万トンに上ったが、国内供給量は銑鉄二万六千トン、鋼材は千二百トンでほとんど海外からの輸入に頼っていた状態であった。
翌1896年(明治29年)3月30日に製鉄所官制を発布し、 長官・山内堤雲、技官・大島道太郎が決定した。設置場候補地として福岡県遠賀郡八幡村(現北九州市八幡東区)、企牧郡柳ヶ浦、広島県安芸郡阪村の三か所があげられ、誘致運動、陳情合戦が行われた。実地調査の結果、豊かな石炭の産地である筑豊炭田から鉄道や水運で石炭を大量・迅速に調達できるメリットが大きかった点と、港もあり軍事防衛上や原材料入手の双方の利便性が決めてとなり八幡への設置が決まった。また調査委員長を務めていた福岡県出身の農商務次官・金子堅太郎のバックアップと、背後に三井、三菱、住友、古河などの中央資本や地元財閥の貝島、麻生、安川などが筑豊炭田に進出していたことも八幡決定の要因として大きかった[6]。
1897年(明治30年)2月6日に「製鉄所ハ福岡県下筑前国八幡村ニ之を置ク」と公示され着工、1901年(明治34年)2月5日に東田第一高炉で火入れが行われる[7][8]。この操業に当たっては先に国内初の成功を収めていた釜石鉱山田中製鉄所から選抜派遣された7人の高炉作業者が派遣されている。同年11月18日には東京から多数の来賓を迎えて作業開始式が祝われた。建設費は、日清戦争で得た賠償金で賄われている。当時は、単に製鐵所と呼んでいた。
当時の日本には近代的な製鉄事業に必要な知識経験がないため、最新技術を採用するという方針で欧米の事情が調査され、その結果、ドイツのオーバーハウゼン市にあるグーテホフヌンクスヒュッテ (GHH) に設計が依頼された。操業も、高い給料で多数のドイツ人技師を雇用した上で開始されている。しかし、当初はコークス炉がなく、使用した鉄鉱石の性質も欧州とは異なるため、銑鉄の生産が予定の半分程度にとどまり、計画した操業成績をあげることができなかった。それに伴い赤字が膨れ上がり、遂に1902年(明治35年)7月に操業を停止する事態となった。そこで、政府は調査委員会を設置し、その検討をもとに、コークス炉を建設し、原料も精選する方針が立てられた。
その後、1904年(明治37年)2月に日露戦争が勃発し、鉄の需要が急激に増えた。政府は、コークス炉の完成を受けて製鐵所の操業再開を決め、4月6日に第2次火入れが行われたが、わずか17日間で操業停止に追い込まれた。そこで釜石鉱山田中製鉄所の顧問である東京帝国大学工学部元教授・野呂景義に原因調査が依頼された。炉内をより高温に保つため、高炉の形状を改め、操業方法も改善するという野呂の提案を受け、高炉が改造され、7月23日に第3次火入れが行われた。この改良は成功し、その後は順調に操業を進めて、多くの銑鉄を得ることができた。そして、翌年の2月25日には、以前から建設が進められていた東田第二高炉に火入れが行われ、銑鉄の生産量がほぼ2倍になった。
戦争が終わると今度は民間から鉄の需要が増え、技術革新、重工業の発展に伴う需要増加に応えるため、第一期拡張工事(1906年 - 1910年)、第二期拡張工事(1911年 - 1915年)、そして第一次世界大戦で大幅に増えた鉄鋼需要に応え、第三期拡張工事(1917年)、1927年(昭和2年)には年間銑鉄生産量年100万トン計画が立案され、海に築く製鉄所の先駆けとなった洞岡高炉群の建設決定(1938年(昭和18年)完成)と、次々と拡張していき、国内の大半の需要を八幡製鐵所が賄うようになった。
当初は農商務省管轄だったが、農商務省の分割によって1925年(大正14年)に商工省工務局(現・経済産業省製造産業局)管轄となり、それは1934年(昭和9年)の日本製鐵発足まで続いた。
第一次世界大戦後の不況により、製鉄企業の合理化が推し進められ、1934年1月29日に日本製鐵株式會社法により、官営製鐵所・九州製鋼・輪西製鐵・釜石鉱山・富士製鋼・三菱製鐵(現・黄海製鉄連合企業所)・東洋製鐵の官民合同で日本製鐵(日鉄)が設立された。この時、官営製鐵所の名称が八幡製鐵所へと変更された。一連の出来事は製鉄大合同と呼ばれ、国内のシェアのほとんどを日鉄が占めることとなった。
近代化産業遺産(The Imperial Steel Works, Japan (ID1484-022) )として認定されている。
明治20年代に急増した鉄鋼需要を補うため、1897年、筑豊炭田に隣接し誘致活動が活発だった八幡に製鉄所を設置することが決定する。ドイツのグーテホフヌンクスヒュッテ(GHH)社に設計を依頼し、技術指導を受けた。4年の建設期間を経て、1901年2月に東田第一高炉に火入れが行われ稼働が開始する。しかし、トラブルや資金難により翌1902年7月には休止を余儀なくされたため、釜石田中製鉄所で日本初のコークスによる銑鉄生産を成功させた野呂景義に再建が託される。野呂は高炉の改良と新たなコークス炉の建設を行い、1904年7月から本格稼働を再開した。これにより、日本の高炉操業技術が確立され、日本の産業近代化(重工業化)が達成される。製鉄所は1930年代にかけて拡張され、周辺にも多くの産業が集積し、北九州工業地帯の主要拠点となった。事業所内にあり秘密保持に懸念があることや老朽化していることから、いずれの施設も見学はできない[9][10]。登録面積は1.71 ha(緩衝地域33.81 ha)である[11]。
1899年に建設された赤煉瓦組積造の建物。製鐵所の技術者による設計。骨組はクイーンポストトラス組み、煉瓦積みはイギリス式の一方、屋根は和式の瓦葺。1922年まで本事務所として使用された後、鉄鋼の研究所として使用された。見学不可だが、2015年4月に眺望スペースが設けられて遠景を見ることが可能となり、登録後から個人利用に限り写真撮影が認められている[10][12][13]。
1900年に建設された鉄骨造の建物。設計及び使用鋼材はGHH社による。現存する日本国内最古の鉄骨建築物。3回に亘り増築されたが、使用された鋼材がドイツ製から次第に日本製へと変わり、日本の製鉄技術が発展する過程を示すものとなっている。現在は新日鉄住金の主要な協力会社の一つである山九により、製鉄所で使用する機械の修繕や部材の製作が行われ、現在も稼働中。見学は不可[10]。
1900年に建設された鉄骨造の建物。設計及び使用鋼材はGHH社による。製鉄所で使用する鍛造品の製造が行われ、大正時代に現在の場所に移転してからは製品試験所として使用された。現在は創業時からの資料を保管する史料室となっている。見学は不可[10]。
1933年(昭和8年)に八幡東区高見一丁目1-1(現住所)に建設された迎賓館的な応接用施設。 応接室、会議室、使われていない撞球室などを有する。当時の所長が奈良ホテル(辰野金吾設計)をモデルにするよう命じたこともあり、建物は木造平屋一部2階建ての豪華な造りで、第二次世界大戦後には一部鉄筋コンクリート造に改造された[14]。 1949年(昭和24年)、九州地方に向けて行われた昭和天皇の戦後巡幸では、行在所(宿舎)として利用された[15]。
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