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上山満之進
日本の官僚、政治家 ウィキペディアから
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上山 満之進(かみやま まんのしん / みつのしん、1869年10月31日〈明治2年9月27日〉- 1938年〈昭和13年〉7月30日)は、日本の官僚、政治家。農商務次官、台湾総督、貴族院議員、枢密顧問官。
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郷里では旧藩主毛利敬親や毛利元徳の伝記編纂所の所長を務め、郷土史研究の出版や史跡跡保存事業などにも私費を投じた。上山の寄付で防府市立三哲文庫[1](現・防府市立防府図書館)が開館したことから「防府図書館の父」と呼ばれている。
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経歴

青年期
周防国佐波郡江泊村(現・山口県防府市大字江泊)出身。庄屋格の上山与左衛門の二男として生まれる。周陽学舎)、山口中学、山口高等中学を経て、1895年(明治28年)7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業した。
官僚時代
内務属となり内務省県治局勤務となる。1895年11月、文官高等試験に合格。同年12月、青森県参事官に就任し、同県内務部第1課長を経て、1896年(明治29年)5月、山口県参事官に転じた。1897年(明治30年)12月、同県内務部第3課長に異動。
1898年(明治31年)12月、法制局参事官に就任し同第1部勤務を経て、1906年(明治39年)10月、行政裁判所評定官兼法制局参事官に就任。1908年(明治41年)8月、農商務省に転じ山林局長となる。1912年(大正元年)12月、熊本県知事に就任し、1913年(大正2年)6月まで在任し休職した。1914年(大正3年)4月、農商務次官となり、1918年(大正7年)10月、寺内内閣の総辞職に伴い次官を辞した。
貴族院議員、台湾総督
1918年(大正7年)9月21日、貴族院勅選議員に任命され[2]、同和会に属し1935年(昭和10年)12月まで活動した。 1926年(大正15年)7月16日、第11代台湾総督に就任した[3][4]。1928年(昭和3年)6月、台中不敬事件により台湾総督を辞任。1935年(昭和10年)12月、枢密顧問官となり、1938年(昭和13年)7月まで在任した。
文庫の建設

晩年は、生まれ故郷に図書館を建てることを計画[5]。資金や蔵書を寄付するが、工事が遅延した為に図書館の完成を待たずに1938年(昭和13年)7月30日に病没した[5]。
子の上山勝と甥の小野幸吉が図書館建設の意志を引き継ぎ、1941年(昭和16年)4月1日に防府市立三哲文庫[1](現・防府市立防府図書館)が開館した[5]。
1981年(昭和56年)には防府市立防府図書館が桑山2丁目に移転し、2019年(令和元年)には跡地の三哲文庫記念公園に顕彰碑が建てられた[6]。
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栄典
- 位階
- 勲章等
- 外国勲章佩用允許
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著書・関係文献
- 著書
- 『地方制度通』金港堂、1899年。
- 『立木不動産法通解』大日本山林会、1911年。
- 『国民生活の安危』文化生活研究会出版部、1922年。
- 『米穀問題』農村問題体系 第8編、日本評論社、1926年。
- 伝記
- 上山君記念事業会編『上山満之進』上下、成武堂、1941年。
脚注
参考文献
外部リンク
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