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市川 経好(いちかわ つねよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。 吉川氏の一門で毛利氏の家臣。山口奉行を務める。
天文16年(1547年)、父・経世と共に従兄の吉川興経を廃して毛利元就の次男元春を養嗣子に迎えるために尽力した。同年閏7月22日、父・経世、弟・今田経高と共にが連署の血判起請文によって、毛利元就、隆元、元春への忠誠を誓い[1]、閏7月25日に元就、隆元、元春は返答の連署起請文を送っている[2]。
それにより安芸国市川邑を加増された。しかし、経好は思う所があってか一時は市川邑に蟄居したものの、元就から数度の招聘を受けて出仕した。これ以後、在名から名字を「吉川」から「市川」へと改めている。
弘治3年(1557年)にはその行政手腕が認められて山口奉行に就任し、防長経略後に毛利氏の支配下に入った周防国山口を治めて、高嶺城に入った。永禄10年(1567年)7月19日には毛利輝元から「伊豆守」の受領名を与えられた。
永禄12年(1569年)に大友宗麟の支援を受けた大内輝弘が豊後国より出陣し、周防に上陸。高嶺城を包囲する。この時経好は北九州において立花山城をめぐって大友氏と対陣中であり、城には妻の市川局と僅かな家臣、守備兵しかいなかった。しかし市川局は城兵を指揮して大内軍を撃退し、見事に城を防衛した(大内輝弘の乱)。この功績により、天正5年(1577年)閏7月6日に市川局は毛利輝元より感状を受けている。
天正6年(1578年)3月6日、長男の元教が大友氏と内通して反乱を企てていることを知った経好は、内藤元輔や雑賀隆利らを遣わして元教を討ち取り、毛利氏への忠誠を示した。以後は次男の元好を嫡男となった。
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