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平安時代後期の貴族。正四位下・右大弁 ウィキペディアから
文章生から加賀掾を経て、白河朝の初めに六位蔵人・左衛門尉を務める。兵部少輔に遷った後、越中守として白河朝の後期には地方官も務めた。
白河院政期に入り、勘解由次官として京官に復したのち、寛治4年(1090年)五位蔵人、寛治8年(1094年)右少弁と右衛門権佐(検非違使佐)を兼帯し、承徳2年(1098年)に蔵人衛門佐を離れるまで三事兼帯となる。その後も、承徳2年(1098年)左少弁、康和元年(1099年)右中弁、康和2年(1100年)従四位上、康和4年(1102年)正四位下・権左中弁、嘉承元年(1106年)右大弁と堀河朝中期から後期にかけて弁官を務めながら昇進を重ねた。また、摂関家の藤原師通の家司も務めている。
鳥羽朝の天仁元年(1108年)10月に右大弁を辞し、出家して法名を定恵(または貞恵)と称す。翌天仁2年(1109年)2月10日卒去。享年56。
仏画をよくしたといい、また文筆にも優れていた。三事兼帯経験がある実務家であった。康和元年(1099年)に因幡守として任地へ赴いたときの記録が日記『時範記』に残っており、当時の受領の行動や、因幡の状況を知ることができる貴重な史料となっている。
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