服部天神宮
大阪府豊中市服部にある神社 ウィキペディアから
大阪府豊中市服部にある神社 ウィキペディアから
服部天神宮(はっとりてんじんぐう)は、大阪府豊中市服部元町にある神社。旧社格は村社。関西では「足の神様」として知られている。
鎮座の時期については詳らかでないものの、帰化人集団「秦氏」が允恭天皇の御世(412年 - 453年)に織部司に任じられ当地を服部連の本拠とした際、外来神の少彦名命(医薬の神)を祀ったのが始まりとされる。この頃はまだ小さな祠だったという。しかし允恭天皇の御世に服部連を賜姓されたのは秦氏ではなく伊豆国造族の麻羅宿禰(麻羅足尼)であり[1][2]、その祖神が少彦名命と見る説もある[3]。その後、この少彦名命を祀る祠は天神祠と呼ばれるようになった。
延暦2年(783年)に藤原魚名は大宰府に左遷されて筑前国へ向かったものの具合が悪くなり、自らの所領があったこの川辺荘で病臥するとそのまま当地で没し、天神祠の近くに葬られた。現在も「川辺左大臣藤原魚名公の墓」が境内に残る。約100年後の延喜元年(901年)に今度は菅原道真が魚名と同様、大宰権帥として左遷され任地へ赴く途中、当地で持病の脚気に襲われ動けなくなった。そこで里人の勧めるままに路傍の天神祠と魚名を祀る五輪塔に平癒を祈念したところ、たちまち健康を取り戻して任地へ辿り着けた、との言い伝えがある。
菅原道真の没後、天神信仰の高まりと共に当社にも菅原道真を合祀することとなり新たに堂宇が建立された。この頃から「服部天神宮」と呼ばれるようになり、菅原道真の故事にちなみ「足の神様」として崇敬を受けるようになった。
近世に入ると、当地が能勢街道の宿場町だったこともあって徐々に門前市を成すようになり、中でも江戸時代後期の文化年間(1804年 - 1817年)、文政年間(1818年 - 1829年)には殷賑を極めたという。
明治時代になると村社に列せられている。1910年(明治43年)3月10日に箕有電軌(現・阪急電鉄)が開業し、服部停留場が開設された。2013年(平成25年)12月21日に阪急宝塚線の服部駅が服部天神駅に駅名変更した。これは「駅間近の歴史的観光資源を分かりやすく案内する」という阪急電鉄の方針によるものである。
三大文化人の碑は1990年(平成2年)12月に建立された。その3人とは、「西田王堂」「矢野橋村」「安田青風」である。
豊中えびす社の十日戎で奉仕を希望する福娘は公募で選ばれている。毎年600 - 700名の応募があり、第1次審査の書類選考を通過した者の中から、第2次審査の面接選考を経て約25名が選出される。1997年(平成9年)には初めて外国人が選ばれ、母国の各メディアで報道されるなど話題となった。以降、留学生枠が設けられ毎年外国人が福娘として選出されている。日本人の福娘も語学に堪能な者が多く、国際交流に大きく貢献している。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.