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秦氏

日本の古代氏族 ウィキペディアから

秦氏
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秦氏(はたうじ)は、「秦」をの名とする氏族

概要 秦氏, 氏姓 ...
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概要

秦氏は蚕・絹等による織物、土木技術、砂鉄や銅等の採鉱と精錬、薬草等の高度技術を日本へ伝えた[1]天武天皇14年(685年)の八色の姓では忌寸の姓を賜与されるが、忌寸の他に公・宿禰等を称する家系があった。

歴史

要約
視点

秦王朝との関係性

平安時代初期の815年に編纂された『新撰姓氏録』によれば、秦氏は秦王朝始皇帝(中国で初めて天下統一を果たした人物)の末裔であるという意味の記載が存在する[2][3][4]。また秦氏の本拠地である京都府太秦には始皇帝・弓月君秦酒公主祭神である大酒神社が存在する。

日本書紀』応神天皇条においては応神天皇14年(283年)に百済を経由して百二十県の人を率いて帰化したと記される弓月君が秦氏の祖とされており[3][4][5][6][7][8]、「弓月」の朝鮮語の音訓と訓読み(クンダル)が「百済」の和訓である「くだら」とほぼ同音である事から百済の系統とする説も存在する[9]。中国の西に位置する天山山脈の麓にあった弓月国を源とした一族が建国した秦韓(辰韓)を創建した国王の子孫とも言われており、新羅に滅ぼされた際に弓月君が日本に帰化したという[10]

新羅説も存在し、ハタ(古くはハダ)という読みについては朝鮮語のパダ(海)によるとする説の他に、機織や、新羅の波旦という地名と結び付ける説が存在する[11]。また秦氏は百済経由の渡来ではあるが、百済以前は新羅に定住していたという説も存在する[1]豊後国風土記には「むかし、新羅の国の神、自ら渡り到来りてこの川原に住みき、すなわち名を鹿春の神といひき」、八幡宇佐宮御託宣集には「辛国の城に、始めて八流の幡と天降って、吾は日本の神と成れり」と、新羅に関係する記述が記載されており、秦氏は農耕・養蚕・機織・銅鉱山・鍛冶等、当時の最先端技術を多く日本に伝えているため、新羅系という説も存在する[1]

815年に古書には辰韓が中国王朝から秦韓と呼ばれていた事から、出自が間違っているという考察があり[12][13]、方位では東南東を意味する「辰」の辰韓は中国王朝からは秦韓と呼ばれた事から、秦の末裔ではないかと思われたといい、物語が誤伝された事により辰韓は発音が似た秦韓に間違えて呼ばわれていたという意見も存在する[14][15][16]

秦王朝と秦氏の関係は複数の見識者が提唱している[3][4][17][18][19][20]田辺尚雄によると、五胡十六国時代の中国において、羌族が興した後秦に由来し、羌族がチベット・ビルマ語派に属するチベット系民族であって、同言語においてハタは辺鄙の土地、ウズは第一、キは長官を意味する事から、ハタのウズキとは「地方を統治する第一の長官」を意味するとの説がある。同様にマは助詞「の」、サは都を意味することから、ウズマサは「第一の都市」を指すという[17][18]歴史学者である井上光貞なども秦氏を「中国文化を身につけた外来人で、秦の遺民を称する人々」であるとしており、江戸時代にも新井白石が『古史通』惑門にて秦氏は辰韓に移住してきた秦人であると主張している[19][20]。また『隋書』には華夏(中国)と「同」である秦王国なる土地が日本にあったことが紹介されている[21]

西洋説

秦氏の「秦」とは秦王朝の事ではなく、大秦ローマ帝国)の事を指すという説も存在する(また秦氏の本拠地である太秦と大秦は名前が似ている)[22][23][24][25]

佐伯好郎景教キリスト教ネストリウス派)徒のユダヤ人が祖であるとする説(日ユ同祖論)を提唱しているが[26]、当の佐伯自身はのちに「ユダヤ人の大資本を導入してやろう。それには、ユダヤ人の注意を日本に向けさせる必要がある」「ユダヤ資本を日本に導入する志をたてて、そのために打った第一手が大秦氏=猶太人の着想であった」とユダヤ人に日本を注目させるために説を提唱したことを自白している[27]

日本への渡来以降

葛城襲津彦の支援によって日本へ渡ると、葛城氏の本拠地である葛城に住んだ[28]大和国のみならず、山背国葛野郡(現在の京都市右京区太秦)、同紀伊郡(現在の京都市伏見区深草)や、河内国讃良郡(現在の大阪府寝屋川市太秦)、摂津国豊嶋郡、針間国(現在の兵庫県)、阿波国伊予国など各地に土着し、土木養蚕機織などの技術を発揮して栄えた。丹波国桑田郡(現在の京都府亀岡市)では湿地帯の開拓などを行った。

秦氏の本拠地は山背国葛野郡太秦とされており、山背国においては桂川中流域、鴨川下流域を支配下におき、その発展に大きく寄与した。山背国愛宕郡(現在の京都市左京区北区)の鴨川上流域を本拠地とした賀茂氏と関係が深かったとされる[29]。秦氏は松尾大社伏見稲荷大社などを氏神として祀り、それらは賀茂氏の創建した賀茂神社とならび、山背国では創建が最古の神社となっており、秦氏の末裔はこれらの社家となったとの説もある。

河内国讃良郡にも「太秦」の地名が存在する(上述した寝屋川市の町丁)。河内国太秦には弥生中期頃の高地性集落(太秦遺跡)が確認されており、付近の古墳群からは5世紀から6世紀にかけての渡来人関係の遺物が出土している(太秦古墳群)。秦氏が現在の淀川の治水工事として茨田堤を築堤する際に協力したとされ、現在の熱田神社(大阪府寝屋川市)が広隆寺に記録が残る河内秦寺(廃寺)の跡だったとした調査結果がある[要出典]

雄略天皇の時代には秦酒公(さけのきみ)が秦氏の伴造として各地の秦部・秦人の統率者となり、公のを与えられた[30]欽明天皇の時代には紀伊郡深草里の秦大津父(おおつち)が伴造となって、大蔵掾(おおくらのふびと)に任ぜられた。推古天皇30年には当時の中心的人物であり、聖徳太子の側近として活躍した秦河勝広隆寺を建立。皇極天皇の時代には上宮王家が所有する深草屯倉を秦氏が管理経営していたという。また、これ以降秦氏の氏人は造姓を称したが、一部は後世まで公姓を称した[31]

秦大津父は夢の中で狼を助け、それにより伴造となったが、この夢は、間接的に、狼=神が欽明天皇の即位を望んでいた(欽明の天皇即位の正統性を強調している)こと、欽明天皇の即位に秦氏の影があったことを表してると考えられる[32]

「深草秦氏」と「葛野秦氏」は、ほぼ同時期の6世紀に葛城から移住しており、まず肥沃な深草を拠点とした秦大津父が秦氏の族長となり、葛野の開発によって葛野秦氏が台頭し、族長の座が秦河勝の手に移ったと考えられる[32]。そして、秦氏の族長は、『日本書紀』に「秦大津父が欽明天皇に『秦伴造』に任命された」という記事があるように、王権によって決められており、秦河勝や太秦公の姓を賜った秦島麻呂も同じであった[32]

秦氏は上宮王家と親密であったが、それはあくまで職務上のことであり、私的に臣従していたわけではなく、非政治的な一族であった。そのため、上宮王家が滅んだ後も秦氏が没落することはなく、蘇我氏と結びついて天武天皇に直接批判された東漢氏とは対照的である[32]

天智天皇は秦氏による山背国(山城国)への開拓(遷都)を進めていたが未開のままとなる。天応元年の桓武天皇即位により再び開拓がなされ、延暦3年(784年)に長岡京を造営する。延暦13年(794年)には和気清麻呂藤原小黒麻呂北家)らの提言もあり、平安京への遷都となった。平安遷都に際しては葛野郡の秦氏の財力・技術力が重要だったとされる。平安時代には多くが惟宗氏を称するようになったが、秦氏を名乗る家系(楽家の東儀家など)も多く残った。東家・南家等は松尾大社の社家に、荷田家・西大路家・大西家・森家等は伏見稲荷大社の社家となった。中世になり社家を継いだ羽倉家は南北朝の混乱時に荷田氏への仮冒が疑われている[33]

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秦氏の系統(一覧)

要約
視点
  • 豊前秦氏 - 正倉院文書によると豊前国の戸籍には加自久也里、塔里(共に上三毛郡=現在の築上郡)、丁里(仲津郡=現在の福岡県行橋市・京都郡みやこ町付近)[34]の秦部[35][36]や氏名が横溢している。
  • 葛野秦氏 - 拠点は山城国葛野郡太秦。長岡京、平安京の遷都にも深く携わったとされる。弓月君一族の秦酒公秦河勝、秦忌寸足長(長岡京造営長官)、太秦公忌寸宅守など。
  • 深草秦氏 - 拠点は山城国紀伊郡深草上宮王家が所有する深草屯倉を管理経営したとされる。大蔵の財政官人を務めた秦大津父(おおつち)、秦伊侶具伏見稲荷大社の建立)など。
  • 播磨秦氏 - 拠点は播磨国赤穂郡平城宮出土木簡に書き残されている。風姿花伝によると秦河勝はこの地域に移住したとされる。秦河勝を氏神として祭った神社として大避神社が兵庫県内に多数鎮座している。また、河勝の伝承以外にも、実際に赤穂郡周辺に秦氏がいたことが史料より確認されている[37][38][39]
    • 平城宮跡出土木簡には、年代は不明であるものの、ある木簡には、表に「播磨国赤穂郡大原」、裏に「五保秦酒虫赤米五斗」と、ある木簡には「赤穂郡大原郷 秦造吉備人丁二斗 秦造小奈戸三丁斗」と、ある木簡には「赤穂郡大原郷 戸主秦造吉備人」と記されている。
    • 延暦12年(793年)4月19日付の「播磨国坂越神戸両郷解」には、天平勝宝5年(753年)頃に赤穂の地に秦大炬という人物がいたことが記録されている。
    • 『石崎直矢所蔵文書』・『東大寺牒案』には、延暦12年(793年)の5月14日に「擬大領外従八位上・秦造(闕名)と擬少領無位・秦造雄鯖という人物がいたことが記録されている。
    • 日本三代実録貞観6年(864年)8月17日条には播磨国赤穂郡大領外正七位下・秦造内麻呂が外従五位下になったとある。
    • 平安遺文」の11世紀後半(延久3年(1071年)から承暦3年(1079年)にかけて)の東寺文書中に、赤穂郡大領または播磨国大掾であった秦為辰開発領主として開墾したとある。
    • 長和4年(1015年)11月の播磨国符に記された赤穂郡有年荘文書には、寄人41人による連名があり、その中には秦姓の人物が12人[注釈 1]いる。
    • 有年牟礼・山田遺跡からは、「秦」と漢字が刻まれた平安時代の須恵器が出土している。
    • 播磨国揖保郡少宅郷には、戸主・呉部首種麻呂の戸口として秦田村君有礒の名前が見える。
    • 同じく少宅郷には少宅秦君氏がおり、『播磨国風土記』によれば、小宅の秦君の娘と川原若狭の祖父が結婚し住んだ家を小宅と名付けたのが地名の由来であるという。
  • 美作・備前秦氏 - 上記の播磨国西部の秦氏と関連する形で、美作国備前国にも秦氏がいたことが知られている。
    • 『続日本紀』文武天皇2年(698年)4月壬辰条には、侏儒であった備前国人・秦大兄が香登臣の姓を賜っており、備前市香登本の大内神社や大酒殿趾は秦氏が先祖を祀った神社であるとされる。
    • 「大日本古文書」所収の宝亀5年(774年)3月12日付の勘案状によれば、備前国邑久郡積梨郷には秦造国足秦部国人がいたことが記されている。
    • 平城宮跡出土木簡によれば、年代は不明であるものの、備前国邑久郡旧井郷に秦勝小国がいたことが記録されている。
    • 平城宮跡出土木簡によれば、年代は不明であるものの、備前国邑久郡八浜郷の戸主・(闕氏)麻呂の戸口に大辟部乎猪がおり、「大辟部(オホサケベ)」という氏から秦氏の部民であったと考えられる。
    • 平城宮跡出土木簡によれば、年代は不明であるものの、備前国上道郡沙石郷御立里に秦勝千足秦部得丸が、同郡幡多郷に秦人(闕名)秦人部得足秦老人秦忍山が、同郡掲勢里に秦部犬養秦部得万呂がいたことが記録されている。
    • 平城宮跡出土木簡によれば、年代は不明であるものの、備前国御野郡に秦(闕名)がいたことが記録されている。
    • 岡山県長船町にある湯次神社の湯次神は弓月君であるとされる。
    • 高木大亮軒宝永6年(1709年)に記した『和気絹』によれば、岡山市半田山は秦氏の人間が松を植えたために秦山と呼ばれるようになったという[40]
    • 前賢故実』などによれば、美作国久米郡には秦豊永がおり、恭しく忠実な性格で、両親に孝行を尽した。両親が亡くなった後、常に親の墳墓を守り、供養を続けた。豊永の事が朝廷に伝わり、貞観7年(865年)11月に朝廷は豊永に位を授け、その労役を免除、門閭に表彰の印を掲げ、世間で知れ渡るようにしたという。豊永は三保村大字錦織の錦織神社に祀られている。
    • 美作国久米郡出身である法然の母親は秦君清刀自であるとされる。
  • 近江依知秦氏 - 近江国愛智郡など琵琶湖周辺が拠点。楽師なども多く輩出。太秦嶋麿、楽家として栄えた東儀、林、岡、薗家など。現在の宮内庁楽部にもその子孫が在籍する。
  • 若狭秦氏 - 若狭国は現在の福井県。塩や海産物を朝廷に多く献上した地。
  • 越前秦氏 - 坂井、丹生、足羽の越前北部を基盤とした。
  • 東国秦氏 - 駿河国甲斐国相模国秦野など東日本の秦氏をまとめた名称。(東海秦氏と記述されている場合もある。)
  • 信濃秦氏 - 信濃国の国司などを務め、更級郡を拠点としたとされる[注釈 2]

(主なものを掲載。年代や書物などにより名称が異なる場合がある。

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秦人と秦人部、秦部

秦氏には秦人、秦人部、秦部という部民が存在したが、その分類方法は以下の通りであったとされる[41]

  • 秦人 - 弓月君と共に朝鮮からやってきて、既に養蚕機織技術などを身につけていた渡来人集団
  • 秦人部 - 秦人の後に秦氏の傘下に降った倭人
  • 秦部 - 秦人部の中でも、元々畿内や西国の豪族に支配されていたものの、国造制ミヤケ制の進展によって秦氏に管轄されるようになった集団

そして、彼らを在地で管理したのが勝姓や秦氏であった。

構図としては、まずミツキを作る秦人、農作をする秦人部や秦部がおり、在地の勝姓が彼らを統率していたとされる。そして、勝姓は在地の秦氏によって管理され、在地の秦氏は都までミツキを送り、中央の豪族であった秦氏がクラに納めていたと考えられる[41]

秦氏が創建に関係した主な神社・寺院

神社
寺院

秦氏に関する人物

平城京跡出土の木簡に記述されている秦氏
  • 秦老人 - 備前国
  • 秦忍山 - 備前国。
  • 秦大丸 - 備前国。
  • 秦勝小国 - 備前国。
  • 秦部得丸 - 備前国。
  • 秦部(犬)養 - 備前国。
  • 秦部得万呂 - 備前国。

正倉院文書に記述されている秦氏[46]

  • 秦秋庭(秦常秋庭)
  • 秦乳主(秦忌寸乳主)
  • 秦東人(秦前東人 - 「少初位上 秦前東人」)
  • 秦家主(秦部家主 - 「大初位下 秦部家主[35][36]」) - 秦家主(はたのやかぬし)は、746年(天平18年)から771年(宝亀2年)まで、造東大寺司写経所で活動したことが正倉院文書から確認されている。また、2011年から4年をかけて行われた校倉造りの宝庫「正倉」の屋根修理工事の際、正倉内に積んであった空の古櫃(こき:宝物を納めていた古い木製の箱)168合を一時移動させる必要があった。このとき「八月廿一日借用紙四枚 給秦家主」という墨書が新たに見つかっている(古櫃第二十号のふたの裏)[47]

前賢故実に記述されている秦氏

  • 秦酒公(はた の さけのきみ)-【巻第一】
  • 秦河勝(はた の かわかつ)-【巻第一】
  • 秦部総成女[35][36](はたべ の ふさなりのむすめ)-【巻第四】
  • 秦豊永(はた の とよなが)-【巻第四】
  • 秦武文(はだ の たけぶん)-【巻第九】
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末裔とされる氏族

末裔・枝氏は60ほどあるとされる[48]

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末裔を称する人物

参考文献

  • 太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店〈第1巻〉、1963年。doi:10.11501/3020672全国書誌番号:63011494〈第2巻〉。doi:10.11501/3020673全国書誌番号:63011494

〈第3巻〉。doi:10.11501/3020785全国書誌番号:63011494

脚注

関連項目

外部リンク

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