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日本の安土桃山時代~江戸時代前期の武将。駿河安倍郡柿島領主朝倉在重長男で、江戸幕府旗本を経て、駿河駿府藩附家老(遠江掛川26000石)を勤めた。従五位下筑後守 ウィキペディアから
朝倉 宣正(あさくら のぶまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。徳川氏の家臣で、徳川忠長の御附家老となった。遠江掛川城主であったが、あくまで忠長の家老という立場であったため、幕府からは正式な大名として認められていなかった。
天正元年(1573年)、朝倉在重の長男として駿河国安倍郡柿島で生まれる。
天正18年(1590年)の小田原征伐で徳川家康に従って参加し、このときに家康の命令で徳川秀忠付の家臣となり、200石を与えられ、大番に任じられた。慶長5年(1600年)の上田合戦で、鎮目惟明、戸田光正、斎藤信吉らとともに上田七本槍の一人に挙げられる活躍をしたが、軍規違反を問われ、のちに許された。
慶長7年(1602年)に100石を、慶長9年(1604年)に大番組頭に任じられ200石を加増される。慶長16年(1611年)にも200石を加増、さらに慶長18年(1613年)には堺奉行を務め1000石を加増された。慶長19年(1614年)からの大坂の陣で江戸城守備を命じられ、戦後に1000石を加増。元和3年(1617年)12月に従五位下・筑後守に叙位・任官する。
元和5年(1619年)に3000石、元和7年(1621年)に4000石を加増されて合計1万石の大名となり、同時に秀忠の命令で忠長の附家老に任じられた。元和8年(1622年)に6000石を加増され、元和10年(1624年)1月11日に1万石を加増されて2万6000石の掛川城主となる。
しかし忠長が蟄居となり、寛永8年(1631年)4月、宣正も忠長に諫言しなかったとして、上野板鼻藩藩主酒井忠行にお預けとなる。この時、徳川頼宣らに忠長の赦免の斡旋を願い一旦は許されて、忠長とともに駿河に戻ったが、寛永9年(1632年)、主君である忠長が幕命により改易されると、連座により大和郡山藩藩主松平忠明にお預けの上、改易となった。その後、許されて妻の兄である土井利勝に招かれた。
寛永14年(1637年)2月6日、大和郡山で死去した[1]。享年65。
四男に屋代家の養子に入った屋代忠興がおり、三男・宣季の子が忠興の養子となり屋代忠位を名乗ったが、万石騒動により改易となった。末子の正高の子孫は320石の旗本として存続している。他の子孫に古河藩主土井家の家臣となった者がいるほか、江戸時代初期に江戸町奉行を務めた人物に、父親と同じ名前を持つ在重がいるが、これは宣正の子もしくは弟であるとされる。
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