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千葉県北西部にある地名 ウィキペディアから
習志野(ならしの)は、千葉県北西部にある地名。下総台地の一画を占め、船橋市、八千代市、習志野市に跨っている。習志野市の市名由来となったが、元々の習志野は二宮町(現在の船橋市東部)に位置し、そこから意味する領域が拡大されていった広域地名である(「習志野」の名称を持つ主な施設も参照)。一般には「習志野」が、習志野市周辺を示す地名であると混同されてしまうことが多い[1]。
1873年(明治6年)4月29日に大和田原(陸上自衛隊習志野演習場近辺から成田街道を挟み、高根台周辺までの地域。現在でいう船橋市域)で陸軍大将・西郷隆盛の指揮の下に行われた近衛兵の大演習を観閲した明治天皇が「習志野ノ原」への改名を求め、同年5月17日太政官達によって習志野原となった[2]。その事を記念して同地に「明治天皇駐蹕之処の碑」という紀念碑が建てられている。その後、周辺にある軍郷を総称した広い地域が習志野と呼ばれるようになった。
「習志野原」の命名について、大演習での陸軍少将・篠原国幹の目覚しい指揮に感銘した天皇の「篠原に習え」という言葉が元になった(習篠原→習志野原)という説があり、『習志野市史・第1巻』(1995年)や船橋市郷土資料館(所在地:現・船橋市薬円台、旧・二宮町薬園台)などでもこれを「逸話」として紹介している。 この時「習志野原」で演習を行った近衛兵が核となり、後に大日本帝国陸軍が組織された。 現在では、習志野市(旧・津田沼町)という市町村に名称が取り入れられ大地名として残されている。また、同市が成立する折に、この「習志野」という地名の起源となった地域が所属していた二宮町(現在の船橋市東部地域)や広義の「軍郷・習志野」である幕張町(現在の千葉市西部地域)などを大きく取り込んだ大習志野市構想[3][4]という計画も持ち上がったが、太平洋戦争中に起きた二宮町空襲による国の補償金配分を巡る津田沼町役場と二宮町役場の対立(但し同じ二宮町でも三山村だけは、最後まで津田沼町との合併を望んでいた)などの諸事情により、二宮町は船橋市と合併し、幕張町の大部分は千葉市に編入されてしまい実現しなかった。この船橋市と二宮町との合併により、「習志野」の地名が船橋市に属することとなった。なお、元来の習志野原(旧・習志野演習場)の地域内に含まれない旧津田沼町(現・習志野市)が市制施行時に市名に取り入れた結果、「習志野」という自治体が津田沼地域に成立することとなった。習志野市には、旧・幕張町(一部は旧・大和田町)に属していた愛宕・安生津から編成された「東習志野」の地名がある。
「明治天皇紀」及び「明治天皇御遺跡」によると明治天皇は明治6年、明治7年、明治10年、明治11年、明治13年、明治14年、明治33年、明治45年に年に一度、明治8年、明治9年、明治15年各年に2度の計14回習志野原に行幸をしたという公式な記録が残っている。
このうち明治8年の順路は以下のようになっていた(明治天皇御遺跡による)
江戸時代には、小金牧(馬の放牧場など)の一部で、小金原、小金ヶ原(こがねがはら)とか大和田ヶ原(おおわだがはら)などと呼ばれていた。演習場の総面積は、約11.55平方キロメートルで、真っ平らな高台が広がっていたため、一望千里習志野平原(いちぼうせんりならしのへいげん)とも呼ばれた。実際、富士山や筑波山などが地平線によく見えたという。演習場には騎兵連隊や陸軍騎兵学校が隣接し、現在の京成大久保駅周辺や習志野原の入口が近かった薬円台3・4丁目付近は活気があったといわれている。
習志野原が全国に一般によく知られるようになったのは、日露戦争での秋山支隊の活躍によるものだといわれている。なお、全国の連隊では必ず一度は習志野原で演習が実施されていたため、北海道でも老人に習志野という地名を出すと津田沼駅から演習場までの行軍話や野営話などを語る人もいた。
当時の習志野原(陸軍習志野演習場)には入口周辺以外には柵はなく、演習の時[注釈 1] 以外は一般人も自由に入る事ができ、阪妻映画などの撮影[注釈 2] や学校の各種実習(測量演習など)など年間を通じて民間の利用が可能だった。また、演習場では、騎兵連隊の軍旗祭や騎兵学校の馬術大会が開かれ、皇族・軍人・学生(※身分や学は特に問われず、馬術の技術交流が行われた)を始めとする馬術倶楽部や、乗馬愛好家が集まる乗馬のメッカとしても栄えた(習志野原御猟場も参照)。
年に一度、陸軍騎兵学校で開かれていた乗馬大会は、皇族(特に三笠宮崇仁親王は熱心で学習院時代から毎年参加していたとされる)をはじめ、外国の大使館付武官、将校、御用商人、一般の人も見る事ができたため、東京などから多くの見物客が集まったといわれている。
習志野原(陸軍習志野演習場)が輩出した名騎手の1人としてロサンゼルス五輪の乗馬で金メダルを獲得した西竹一(愛称:バロン西)の名前がよく知られ、現在でも薬円台4丁目に西が下宿していた将校下宿が残されている。
この陸軍習志野演習場は、日本軍が最初に制定した本格的な練兵場(演習場)であり、ここで訓練した兵士たちが基盤となって全国に広がって日本軍を形成し、日本が帝国主義時代を乗り越える原動力となった。
習志野を含む下総台地(北総台地。下総国南東部地域。現在の行政区分では、おおよそ千葉県北西部の、船橋市、鎌ケ谷市、松戸市、柏市、白井市と周辺地域にあたる)は、広大な平坦地ではあるが生活用水となりうる水源の乏しかった為、集落形成には適さず、近代まで開発は進まなかった。しかし、下総台地は馬牧(馬の放牧)に適した平原であり、古くから軍馬の産地として有名であり、源頼朝に献上された生食に代表される名馬たちが育まれた (下総牧。cf. 諸国牧#牧と所在地の下総国)。
江戸時代になると幕府によって幕府直轄の牧場が設置されるようになり、小金牧の一部(下野牧)とされた。
明治維新の後、牧は東京近郊にあることから陸軍の演習場として度々使用されるようになり、明治天皇が「習志野」と命名することとなった近衛兵大演習もその1つである。1874年(明治7年)に陸軍演習場として一帯の官有地が受領された。この時には北端が高根木戸と古和釜木戸を結ぶ古和釜道の南側から、成田街道の両側、南端が境谷(現船橋市と八千代市の境付近)までであった(全て千葉郡二宮村)。一番営から七番営まで兵営が置かれた。その後1900年(明治33年)、1905年(明治38年)と買収により拡大が進み、演習場は千葉郡二宮村(現在の船橋市)、大和田町(現在の八千代市)、幕張町(うち現在の習志野市東習志野の区域)にまたがることとなった。
1899年(明治32年)、騎兵第一・第二旅団が千葉郡津田沼村大久保に設置され(1901年(明治34年)末に編成完了)[注釈 3]、日露戦争での騎兵の活躍を通じて「習志野」の名は広く知られるようになった。1910年(明治43年)に東京上目黒にあった騎兵実施学校は、1916年(大正5年)に二宮村の習志野練兵場敷地内に移転された(翌1917年(大正6年)より陸軍騎兵学校)。その時に目黒の陸軍騎兵実施学校内から移築された騎兵連隊御馬見所(現空挺館)が陸上自衛隊習志野駐屯地内(千葉県船橋市薬円台3-20-1)にある。
1901年(明治34年)、津田沼村大久保に陸軍習志野衛戍病院が設置される(ただし敷地の大部分は二宮村三山に属する)。
1905年(明治38年)に拡大された演習場区域のうち幕張町実籾(現在の習志野市東習志野)地区には、糧秣倉庫(糧秣本廠習志野秣倉庫)や高津廠舎が置かれ、ロシア人俘虜収容所とされた。第一次世界大戦の際にも東新廠舎にドイツ人捕虜を収容した(習志野俘虜収容所)。
1907年(明治40年)、津田沼町に鉄道連隊(聯隊)が転営する。
1908年(明治41年)、千葉町に鉄道連隊(聯隊)が転営する、同第三大隊が津田沼に置かれた(1918年(大正7年)に第三大隊が鉄道第2連隊に昇格)。津田沼から習志野の演習場を経て連隊本部(のち鉄道第一連隊)のある千葉とを結ぶ軍用軽便鉄道が敷設され[注釈 4]、後には松戸との間にも敷設されている。現在の新京成線の前身である。
こうして「習志野」は千葉郡北部の二宮村(1928年(昭和3年)に町制施行して二宮町)、津田沼町(1903年(明治36年)町制施行)、大和田町、幕張町にまたがって分布する陸軍諸施設とともに一帯の地名として理解されるようになった。
第一次世界大戦後、近代戦への変革の中で騎兵とともに知られた習志野も変化を迎えた。1936年(昭和11年)、大久保の騎兵旅団敷地内に戦車第二連隊(聯隊)が置かれ、騎兵部隊の機甲化(戦車部隊化)の始まりを象徴した。千葉市黒砂に開設された陸軍戦車学校が当初は習志野(二宮町)に置かれたとする資料もある。騎兵旅団敷地には1931年(昭和6年)には陸軍習志野学校も開設され、毒ガスをはじめとする化学兵器についての研究・教育が行われ、実験は群馬県や満州で実施されていたといわれている。近年では日本全国の日本陸軍軍用跡地で旧帝国陸軍地毒ガス埋設問題が浮上し、関連施設の安全性調査を実施している[5](別項陸軍習志野学校、習志野演習場を参照)。
現在の習志野原は住宅都市として宅地化されているが、元々の習志野原は草原地帯と樹林地帯、谷津地帯の3つの自然環境が存在した。そこではヘビイチゴ、ノイチゴ、アケビ、スミレ、ヨモギ、ワラビなど季節ごとに様々な植物が見られ、実り豊かな環境が広がっていた。現在でも、その生態系は習志野演習場内に残されており、かつての名残を見ることができる。
1945年(昭和20年)の敗戦後、一部の陸軍施設は米軍によって接収され、その後陸上自衛隊が使用しているものもあるが、演習場の敷地の大部分は習志野開拓と呼ばれ、外地からの引揚者などの手による開墾地(北習志野・南習志野開拓農協)となったり、学校等の敷地に転用された(「平林巌と習志野原の開拓」を参考)。
昭和20年代・開拓時代の習志野原
1960年代以降、日本住宅公団(現・都市再生機構)などによる大規模住宅団地(習志野台団地など)が相次いで造成され、残った農地の多くも宅地化・工業地域化(東習志野工業団地)されて市街地と化している。 主な施設の現状を以下に示す。
「広義の幕張」、および「千葉郡」のうち「幕張町」の項目も参照。
昭和の大合併の直前、習志野周辺は千葉郡の津田沼町、二宮町、大和田町、幕張町の各町に所属していた。当初、津田沼町と二宮町との間で合併の合意が成立したが、間もなく二宮町は船橋市との合併に傾き、1953年(昭和28年)8月1日に船橋市へ編入された。
その後の千葉郡北西部では津田沼町と幕張町の合併が軸となり、これに犢橋(こてはし)村を加えた3町村で合併協議会が発足し、1953年(昭和28年)12月17日の協議会で合併後の新市名を習志野市とすることが決定された。しかし犢橋村では千葉市との合併を望む意見が住民に強く、1954年(昭和29年)1月末、同村は合併を断念した、1954年(昭和29年)7月1日に千葉市に編入された。
一旦津田沼町との合併を受け入れた幕張町でも時間が経過するにしたがって千葉市との合併を望む意見が強まり、5月13日の町議会で千葉市との合併を議決した。これに対して津田沼町との合併を望む意見の強い北部と千葉市との合併を望む意見の強い南部との対立が激化し、県や合併促進協議会、地元選出国会・県議会議員などの斡旋によって最終的に分町合併とすることで調停が成立した。実際には次の手順で千葉市および津田沼町との合併が行われ、「習志野市」が成立した。
旧・幕張町のうち北西部(実籾・愛宕・安生津・屋敷台)のみが習志野市の一部となり、残りの区域は千葉市の一部(現在の花見川区)となった。そして長作・天戸の両地区が千葉市へ戻ったために習志野市の人口は再び3万を割った状態から出発することになった。
なお、習志野市に残った安生津地区(現・東習志野八丁目一帯)は、幕張町が千葉市編入に先立って八千代町から編入した区域である。「安生津」は 1947年(昭和21年)に当時の大和田町の旧・演習地内に起立された大字で、1954年(昭和29年)1月15日に大和田町が睦村と合併した結果、八千代町の一部となった。その後、同年4月1日に幕張町、7月6日に千葉市、8月1日に津田沼町に編入されて習志野市の一部となり、1年足らずの間に4度(手続き上の津田沼町・習志野町を含むと6度)も所属が変更された。また、旧・習志野演習場のうち大半が所属していた旧・二宮町が習志野市ではなく船橋市の一部となった結果、「習志野」の地名が船橋市に属することとなった。習志野市には、旧・幕張町(一部は旧・大和田町)に属していた愛宕・安生津から編成された「東習志野」の地名がある。
以下の区域は一部を除き、いずれも小金牧(下野牧)の区域内である。
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