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千葉工業大学

千葉県習志野市にある私立大学 ウィキペディアから

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千葉工業大学(ちばこうぎょうだいがく、英語: Chiba Institute of Technology)は、千葉県習志野市津田沼2丁目17番1号に本部を置く日本私立大学1942年創立、1942年大学設置。大学の略称千葉工大(ちばこうだい)または工大、英称ではCITまたはChibaTech

概要 千葉工業大学, 大学設置/創立 ...
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概観

千葉工業大学は、第2次世界大戦開戦日の1941年(昭和16年)12月8日に設立許可申請がなされ、同大戦中の1942年(昭和17年)5月15日に日本国政府主導のもと国策で設立された大学を起源に始まった。今日においては日本で現存する最古の工業大学で[1][注 1]、現存する私立の理工系大学としても最も長い歴史を持ち[2]、国公立を含む日本の理工系大学としては東京科学大学に次ぎ2番目に古い大学でもある。

  • 戦前の日本の高等教育においては官立(国公立)優位が絶対の時代であり、私立大学が国公立と対等に扱われるようになるのは戦後の学制改革以降のことで、当時は理工系の分野では私立大学の理工科よりも、官立の高等工業学校の方が格上と見なされるのが一般的であった。千葉工業大学は、日本の私立工業大学(私立理工系大学)として藤原工業大学(後の慶應義塾大学理工学部)に続き、国内で2番目に古い私立の工業大学として設立されたが、藤原工業大学のような純粋な私立大学として設立されたのではなく、国の要請に基づき、国策に沿って設立されたこともあり、当時としては「官立大学に準ずる大学」として位置づけられ、特異な存在だった。特に東京帝国大学に憧れて浪人を繰り返してしていた受験生を中心に人気を集め、1944年(昭和19年)の受験では定員の45倍の受験生が殺到した(『千葉工業大学50年史』より)。そのため、設立当初の学内は「帝大派」「工大派」「玉川学園派」の3つの派閥に分かれていたとされる(詳しくは校章作成のエピソードを参照)。

2025年現在、学長は伊藤穰一(就任時ビデオ)。現在までに14代の学長が統じており、初代学長は京都帝国大学の元総長である小西重直

設置科は5学部17学科、大学院10研究科修士課程19専攻・博士後期課程4専攻で[3] 、学生数は約1万名[4]。また津田沼駅前にある津田沼キャンパスと新習志野キャンパス、および東京スカイツリーキャンパスの3つのキャンパスを有する[5]

週刊東洋経済誌 臨時増刊『大学特集 本当に強い大学2025週刊』において、「教育・研究力」「就職力」「財務力」「国際力」の4つの観点から全国562大学を総合的に評価した「本当に強い大学ランキング2025」で 全国総合14位、関東・首都圏エリアの私立大学では第4位(国公私含めて第6位)にてランクされている[6]

2018年度の志願者数は78,905人で、日本の私立大学[7]の中で第10位である。2023年度には志願者数は14万5128人で、全国第2位[8]に達している。2024年度の志願者数は全国1位となる16万2005人となり、史上最多志願者数を更新した[9]

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沿革

要約
視点

歴史

千葉工業大学は、1942年(昭和17年)5月15日に国家中枢を担う人材養成を目指し太平洋戦争に中に設立されたが、日本の敗戦後は、もっぱら現存する日本最古の私立工業大学として中堅技術者の育成という役割を担ってきた。しかし、近年は「建学の精神に帰ろう」を合言葉に自学の建学精神をもう一度見直し、現在は「世界文化に技術で貢献する」を目標に国家や社会で活躍する理系人材の養成を目指して建学以来の大改革を行っている。

本学の基礎は、教養教育においては小西重直博士、小原國芳博士、本間俊平によって、工学教育においては本多光太郎博士、八木秀次博士によって築かれた(千葉工業大学五十年史刊行委員会『千葉工業大学五十年史』千葉工業大学、1992年を参照の事)。

千葉工業大学の原点は創立者でもある小原國芳が京都帝国大学の学生時代に構想した理想の教育をする「夢の学校」計画に起源を持つ。そして、明治から昭和時代まで教育者・小原國芳と小原を取り巻く教育者たちの体験と研究に基づき理想が具現化されていったのであり、その理想の教育精神は欧米の進歩主義および新教育運動の影響も受けながら、江戸時代までの吉田松陰広瀬淡窓などの先哲たちの教育思想を融合したもので、松下村塾咸宜園の教育精神を基盤としている。

また、「大学の教育は理工系人材たる前に紳士たれ」という理念のもと、全人教育を基本にリベラルアーツ教育と人間教育などが重要視され、設立当時、制服は一般的な学生服ではなく、紳士服を採用し、日本の「ジェントルマン」たる姿勢を備えた人格形成を目指し、個性の伸長にも注力(千葉工業大学50年史より)。

尚、大学のホームページでは教育目標として下記を掲げている[10]

師弟同行(していどうぎょう)、師弟共生(していきょうせい)の教育を以て、

  • 広く世界に知識を求める好学心を持つ人材の育成
  • 自ら学び、自ら思索し創造する人材の育成
  • 自由闊達、機智縦横な人材の育成
  • 善隣及び協力をつくり上げていく人材の育成
  • 高度な専門知識と豊かな教養を持つ、学理及び技術に優秀な人材の育成

を目指す。

また、教育理念は、欧米の進歩主義教育と、江戸時代の吉田松陰広瀬淡窓などの先哲たちの思想を融合したもので、松下村塾咸宜園の精神を基盤とし、20世紀初頭の欧米で起きた新教育運動の影響も受けた(詳細は「興亜工業大学設立趣意書」参照)。

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第一期生入学式記念写真(1942年6月8日、玉川学園内にて撮影)

計画当初、小原ら関係者は滝川事件などの経験から国立教育の限界[11]を感じ、自由と多様性がある私学こそ、国家を支える人材を養成するのに相応しい環境であると考え「明治維新の大業は私学が成した[12]」と私学教育の重要性を説いた。また、幕末期の日本の松下村塾やヨーロッパのパブリックスクールなどの影響も受け、当初「玉川塾工業大学」として玉川学園の主導によって計画された[13]が、国から校名を「興亜」か「東亜」に変更するように通達がなされ、途中で大学設置計画は国の主導で行われる。

当時の社会的風潮(全体主義軍国主義)に反する教育理念(個性尊重や自由主義)を掲げていたため、軍部や旧来の教育をする関係者からの反発や圧力が強く、設立は難航したが、橋田邦彦文部大臣をはじめ、皆川治広東京市教育局長、小西重直京都帝国大学総長、本多光太郎東北帝国大学総長、平賀譲東京帝国大学総長、八木秀次東京工業大学学長、西田幾多郎京都帝国大学名誉教授、波多野精一同教授などの教育界関係者をはじめ、政治家の東郷実森コンツェルン森矗昶森曉親子、東京川崎財閥川崎守之助をはじめとする財政界の支援を受けながら、数は少なかったものの、皇族で、陸軍大将の東久邇宮稔彦王や、大日本帝国海軍では永野修身元帥海軍大将財部彪海軍大将、山梨勝之進海軍大将、大日本帝国陸軍では菱刈隆陸軍大将土肥原賢二陸軍大将などの軍関係者も小原の考えに共感し、長年に渡って小原を支援していた。

当時、激しい反対・抵抗勢力がいる中で、大学設立計画が成功したのは東久邇宮稔彦王・永野修身海軍元帥の働きかけと、橋田邦彦文部大臣の尽力が寛大だったと言われている。大学設立申請の途中(近衛文麿内閣時)で、文部省(現:文部科学省)の指導によって、日本だけでなくアジアや世界を視野に国策的な意図をもった大学へと発展、太平洋戦争中の1942年5月15日東条英機内閣時)に「興亞工業大學」の名称の6年制の理工系大学として玉川学園内に設立された[14]。戦前当時の日本で6年制の理工教育を行うことを許可されていた大学は帝国大学各校と東京工業大学、そして私立大学では早稲田大学理工学部と慶應義塾大学理工学部(旧藤原工業大学)と千葉工業大学(旧興亞工業大學)の3校のみ。また、当時の旧制大学の中では珍しく創立時から大学院の設置も構想されていたという[要出典]。大学設立の際、不足していた実験設備や実験機器などは東京帝国大学東京工業大学からの取り計らいにより共同利用させてもらうことで対処した。

創立時は戦争中だったこともあり、日本全体が国への奉公一辺倒の時代だったが、興亜工業大学ではまだ自由な雰囲気があったため、急速に設立された開校当初、すべての建物がまだ完成していなかったが、大学予科の英語や音楽、古典、道徳などの教養科目授業を青空教室で行う対処をした。結果的に、この授業方式は生徒と先生との関係(先生を囲んでの授業)において建学の精神である「師弟同行」に近いものとなり、好まれたという。当時の在校生の回想録では『いずれの授業も和気あいあいとした授業で、文字通り、いい意味での「エコール・ビュイソエール(みどりの学園)」であった』と称している。

授業は学内のみでなく神社や寺、河川敷、喫茶店などでも行われ、ある時は「百聞は一見に如かず」「百聞は一労作に如かず」との教育理念のもと、小原國芳の発案で観光バスを連ねての東京名所の見学会が行われたり、第一ホテルなどでテーブルマナーの講習会などが行われたりもしたという[要出典]。しかし、当時の学生の中には軍国思想に染まっているものも少なくなく、こういった自由な雰囲気に馴染めず、大学を中退して軍学校などに入りなおす者もいたという。

1944年(昭和19年)には大学本部と本科を東京都千代田区に大学予科を神奈川県川崎市へ移転。この時、学徒出陣によって空となっていた上智学院の校舎に移転した際、同学院との合併問題が文部省筋で浮上、実際に合併した際の校名を『麹町大学』とし具体的な要綱も作られ併契約書の案文を作成するところまできたが、上智学院側の役員だったナチスドイツの神父の署名が得られず、交渉は1945年(昭和20年)5月22日に打ち切りとなった。

戦時を通じ一部の理工系学生は徴兵を猶予されていたため、1943年(昭和18年)に実施された学徒出陣壮行会には出席していない。代わりに1944年(昭和19年)8月23日から学徒勤労令に基づき、兵器開発や生産など、陸軍・海軍関係の研究所や工場、松代大本営の造営などに動員された。この時、航空工学科の学生は東大航空研究所(現・宇宙航空研究開発機構-JAXA)に派遣され、糸川英夫のもとで航空機の研究開発を手伝った。中島飛行機三鷹工場の動員先では空襲で学生1名、引率の教員1名が犠牲となっている。また、この時期になると技術将校養成の高まりから陸軍士官学校海軍兵学校などの士官学校と合同訓練が行われるようになった。

太平洋戦争が終結すると日本の敗戦により、これまでの日本の政策は否定され、アメリカの占領下で公職追放や国家政策の転換が計られた。この影響は、戦時中に国策大学として設立された興亜工業大学にも及び、1946年(昭和21年)には国の提案もあって千葉県君津町(現・君津市)の旧海軍施設跡へと移転し、校名も国策色が濃かった「興亜工業大学」から「千葉工業大学'」と改名した[15]。さらに、それまでの政府の庇護下から外れたことによって、急速に資金難などの問題が発生し、経営環境が悪化。これに伴い、理工系大学の設立を模索していた芝浦学園や理工系学部の増設を考えていた中央大学法政大学などとの合併話や早稲田大学への合流話など次々と浮上した。また、大学の設立意義や国策の旧制大学として設立された背景から、伝統ある同校をそのまま廃校することへの忍びなさから、当時GHQの政策によって新たに設立されようとしていた国立大学千葉大学への合流構想なども持ち上がったが、いずれも実現には至らなかった[16]。そうした動きの中で、在学生や教職員の多くはなんとか大学を存続させようと、学生たちの中には木更津港から船で横浜へ渡り、アルバイトで得た収入を大学にカンパする者も現れたが、最後は日本国民千葉県民からの寄付や支援などもあってなんとか持ち直した。このように、君津校舎時代の千葉工業大学は、大学史上最も困難な時期であったが、寄付によって集めた資金をもとに、教職員と学生が協力して校舎の整備や大学の運営に尽力するなど、教職員と学生が一丸となっていた。また、大学周辺の住民との交流も盛んで、地域の住民チームとスポーツを楽しむなど、日常的に親しい関係が築かれており、時には大学の教養科目の講義を地域の学校や寺院などの施設を借りては行われ、町民も共に参加することもあったほか、学生たちは農作業など地域住民の仕事を手伝うなど、地域との深い結びつきがあった。しかし、君津校舎で発生した火災によって施設の多くが焼失してしまい、交流があった東京大学や東京工業大学などの協力を得ながら、学生を収容するための新たな施設を求めて候補地を探すことになる。

1947年(昭和22年)4月から一部の学生を千葉県津田沼町にあった田中航空機器製作所(後の田中工業)施設跡に移す。田中航空機器製作所の代表であった田中孝は「国破れて、いま教育を捨てたらどうなるか。工業人として郷土の遺産が失われようとしているのを目の前に見、黙っているわけにはいかない」という思いから受け入れを支援した。

その後、1950年(昭和25年)には国による旧軍施設の払い下げ提案を受け、田中航空機器製作所からJR津田沼駅前にあった旧陸軍の鉄道第2聯隊施設跡(現在の同県津田沼町(現・習志野市)の津田沼校地)に移転し、現在に至っている。

年表

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創設時に校舎が存在した玉川学園1942年
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一時期校舎を構えた上智大学1944年 - 1945年
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移転当初の津田沼キャンパス(1950年
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津田沼キャンパス(2012年
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基礎データ

所在地

  • 大学本部(津田沼キャンパス本号館・〒275-0016 千葉県習志野市津田沼2-17-1)
  • 津田沼校地(津田沼キャンパス・千葉県習志野市津田沼)
  • 芝園校地(新習志野キャンパス・千葉県習志野市芝園
  • 茜浜校地(茜浜運動施設・桑蓬寮・椿寮・千葉県習志野市茜浜
  • 千種校地(千種寮・千葉県千葉市花見川区千種町)

象徴

逍遙歌
桑蓬の歌
1946年(昭和21年)学生作詞、学生作曲。
たれ邯鄲の夢に酔ひ
1946年(昭和21年)松藤淳 作詞、山口猛 作曲。
あゝ狂瀾の
?年(昭和?年)作詞、? 作曲。
饗宴の賦
?年(昭和?年)逍遙歌。? 作詞、? 作曲。
スクールカラー
紫紺色でDICカラーガイドのDIC256が指定されている。
モニュメント「永久の環」(芝園校舎)
メビウスの帯無限の記号「∞」をモチーフにしたアルミ製のモニュメント。
東日本大震災後の修復工事の際に撤去された。

教育および研究

要約
視点

組織

さらに見る 学部・学科, 大学院 ...

廃止された学科

さらに見る (旧制大学時), (新制大学時) ...

運用システム

  • 2005年より、多機能ICカード型の学生証を導入している。
  • 2007年より、NTTドコモの端末が当時の芝園校舎全教室(翌年からは津田沼校舎も)に設置され、全授業でICカードによる出欠確認システムの運用が開始されたが、2015年度をもって使用終了し、端末も2016年度後期までに撤去された。
  • 2016年より、入学時に貸与されるiPad miniにインストールされているアプリを用いた出席システムの運用が開始された。
  • 2022年より、国内初の試みとしてNFTで学修歴証明書を発行。NFT修得証明書は仮想通貨のウォレットで証明データを管理できるため、様々なプラットフォームに接続、学びの成果をワンストップでアピールでき、ジョブ型雇用促進時代にも対応、記録の改竄ができないブロックチェーン技術の強みを活かし、学生のプライバシーにも配慮した仕様で情報漏洩リスクを軽減している[21]。また2025年には学習成果の可視化、そしてインセンティブ設計をブロックチェーンで実証、授業で獲得した仮想通貨をマイナンバーカードで決済する実験も行った[22]
  • 2024年、アリゾナ州立大学と学術研究および教育の発展に向けた協定を締結[23][24]
  • 2024年に名誉博士称号を授与する制度を制定。学術文化や社会への功績が特に顕著であると認められ、教育研究に寄与した功績が顕著であると認められる者に贈られる。初めての称号贈呈は、彬子女王殿下に贈られ[25]、2025年にはブータン王国ジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク国王陛下、ロリーン・パウエル・ジョブズおよびリード・ギャレット・ホフマンにも贈られた[26]
  • 2025年、学校法人千葉武陽学園西武台千葉中学校・高等学校と包括的な連携に関する協定を締結した[27]

採択されているプログラム

特色ある大学教育支援プログラム

2005年、文部科学省]が選定する「特色ある大学教育支援プログラム」に「マルチメディア教材による教育・学習支援」(副題:シミュレータをベースにした理工学教育 e-Learning)が採択された[要出典]。情報インフラの整備、学生の授業評価や国内外の教育機関による第3者評価などを行い、シミュレータをベースにしたマルチメディア教材の作成と、それらを補助教材とする教育による教育効果が評価され採択された[要出典][28]

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研究活動の特徴

要約
視点

附属の研究所

未来ロボット技術研究センター[29]

2003年(平成15年)6月1日から、morph3の研究開発チームは科学技術振興機構北野共生システムプロジェクトから千葉工業大学・未来ロボット技術研究センター(fuRo)に移籍。「人とロボットの共生」をテーマに未来のロボット技術に関する研究を行っている。
レスキューロボット・原発調査ロボット
東日本大震災後に福島第一原子力発電所へ最初に投入された国産ロボット「Quince」は、千葉工業大学と東北大学の共同開発である[30][31]。また、千葉工業大学は遠隔操縦ロボット「SAKURA」を原子力緊急事態支援センターで試験運用したり、NEDOのプロジェクトによる「櫻壱號」の開発を行ったりしている[32]

惑星探査研究センター[33]

2009年(平成21年)4月から、松井孝典東京大学新領域創成科学研究科教授を所長に「惑星探査研究センター」を学内に開設した。センターではロボットによる宇宙探査を視野に入れ、研究を実施している。
鯨整体観測衛星「観太くん」
この取り組みは謎が多い鯨の生態を、衛星を使って宇宙から解明することを目的に立ち上げられた試みである[34]。このプロジェクトは、学生達が人工衛星の設計、制作に携わる日本で初めてのケースとなった[要出典]。また、衛星は学内の学科の域を超えて電気・電子分野、土木分野、機械工学分野、工業デザイン分野、建築分野などの学生が参加して開発された[要出典]。鯨生態観測衛星「観太くん」は、2002年12月14日種子島宇宙センターからH-IIAロケット4号機で打ち上げられ、予定の軌道上に乗った[35]。「観太くん」から送られてきた観測情報は、学内外で研究に役立てられている[36]
はやぶさ2
宇宙航空研究開発機構(JAXA)と協力して行われている観測プロジェクト。
水星探査
宇宙航空研究開発機構 (JAXA) や欧州宇宙機関 (ESA) と協力した水星探査計画。
流星観測カメラシステム「メテオ」+流星観測衛星「S-CUBE」
アメリカ航空宇宙局(NASA)と協力して行われた流星観測プロジェクト。

地球学研究センター

2019年7月設立。分析化学など自然科学と、人文科学に属する考古学学際的研究に取り組む。古代エジプトツタンカーメン墓所副葬品である鉄剣の解析などで実績を上げている[37]

学校法人直轄の研究所

人工知能・ソフトウェア技術研究センター[38]

2015年に米澤明憲を所長に迎え、学内に設立された研究所の一つ。センターでは幼児の言語獲得や学習過程の解明などを目標として研究をしている。

国際金融研究センター

2016年に小林孝雄を所長に迎え、学内に設立された研究所の一つ。国際的な金融システムの創造や創出などを目的に研究をおこなっている。

次世代海洋資源研究センター[39]

2016年に学内に設立された研究所の一つ。日本の次世代を担う海洋資源の調査や、新たな関連産業の創出・発展を目的とした研究がなされている。

数理工学研究センター

変革センター[40]

2021年に設立、世界中から多様な分野の研究者が結集し、専門性の枠を超えた新しい技術的・文化的なプラットフォームの創生を行っている。

デザイン&サイエンス研究科 (School of Design and Science, SDS) [41]

通称SDS (School of Design and Science, SDS)は2026年4月より開設される。従来の学問分野の枠組みにとらわれず、プロジェクトを中心に据え、原則に導かれたアンチディシプリナリー(既存の学問分野の境界を越え、知識や手法を自由に統合し、問題解決や研究を行う)なコラボレーションを推進することを目的としている。また、SDS内では授業、作業、日常コミュニケーションにおいて英語が使われる。

過去の研究・開発

千葉工業大学工学研究所

1970年から1975年にかけて設置されていた、社会貢献産学連携に主眼を置いた研究所。
中島「橘花」
基礎科学にも優れた同大教授で海軍航空技術廠所属の中口博海軍技術大尉を中心に開発が進められた日本のジェット航空機。当初は中島飛行機内で開発が進められていた単座式エンジンをもとに計画されていたが、不調だった為、計画を大幅に変更し、石川島播磨重工業(IHI)の永野治によって開発されたネ20をベースに、大日本帝国海軍の双発ジェット戦闘攻撃機としてナチス・ドイツメッサーシュミット社よりデザイン等概要図を受け、日本国内で手に入るパーツや燃料等の材料で製造できるように細部を含め内部構造設計された。日本初の国産ジェット機でもある。
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学生生活

サークル活動

以下の学生を主体とした自治組織によりサークルの運営・企画などが行われている(2020年(令和2年)5月現在)。

体育会
  • 38サークル(28部、6同好会、4愛好会)が所属する。
  • 例年『体育会誌』が発行されている。
文化会
  • 35サークル(30部、5同好会)が所属する。
  • 2012年(平成24年度)より『文化会誌』が発行されるようになった[要出典]

イベント

文化の祭典
毎年5月下旬に文化系サークルを中心に学生の企画・運営で開催される文化祭。
スポーツフェスティバル
毎年10月中旬に体育会を中心に学生の企画・運営で開催されるスポーツイベント。自由参加で体育会(部活)に所属していない学生も参加できる。卓球やサッカーなど球技が主体。
津田沼祭
毎年11月下旬に津田沼祭実行委員会・学友会執行委員会を中心に学生の企画・運営で開催される学園祭。1970年代頃からキャンパスが立地する地域との交流促進のため、当地の地名を取って「津田沼祭」と呼称するようになった。[要出典]
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施設

キャンパス

津田沼キャンパス

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津田沼キャンパス正門
2006年からのキャンパス再開発5か年計画によって、2008年に新1号棟が完成した。2010年に学生ホールが、2011年に新2号棟が完成した。2013年に、新1号棟を2号館、新二号棟を1号館、学生ホールを3号館と名称変更した。

新習志野キャンパス

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新習志野キャンパス正門
  • 所在地:千葉県習志野市芝園
  • 使用学年:1・2年
  • 使用学部:全学部
  • 使用研究科:stub
  • 使用附属施設:クラフトハウス
  • 敷地面積:123,574.00 ㎡
  • 交通アクセス
    • 鉄道:JR東日本京葉線新習志野駅下車、南口より徒歩6分[42]
    • バス:京成バス「千葉工業大学入口」停留所下車、徒歩3分[42]
幕張新都心に隣接している。千葉工業大学では「環境と人にやさしいキャンパス」と標榜している。2013年4月に、芝園キャンパスから新習志野キャンパスに名称変更した。

東京スカイツリータウンキャンパス

東京スカイツリーソラマチ8階に設けられたサテライトキャンパス。レスキューロボットや超巨大ロボティックスクリーンなどが展示されている。

運動施設

茜浜校地(運動場)

  • 所在地:千葉県習志野市茜浜
  • 敷地面積:98,304.00 ㎡
  • 交通アクセス
    • 鉄道:JR東日本京葉線新習志野駅下車徒歩20分
    • バス:京成バス(習志野市ハッピーバス)「海浜公園」停留所下車すぐ[43]
新習志野(芝園)キャンパスの南方に存在し[42]、野球場、サッカー場などがある。1987年に設置された[44]

男子寮の名称は「桑蓬」と称する。この名称は中国の故事「桑蓬之志」に由来。

桑蓬寮(そうほうりょう)
新習志野キャンパス傍にある男子寮で[42]、2014年に完成[44]
椿寮(つばきりょう)
新習志野キャンパス傍にある女子寮で[42]、2014年に完成[44]
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大学関係者と組織

大学関係者組織

  • 千葉工業大学同窓会 - 学生・卒業生・教職員による同窓会[45]
  • 千葉工業大学PPA - 保護者・教職員による後援会組織[46]

大学関係者一覧

対外関係

要約
視点

他大学・高専との協定(国内)

包括提携校

大学
高等専門学校

単位互換協定校

四年制大学
短期大学

連携大学院

中高等学校との協定

その他

海外学術交流(大学/機関)

文部科学省資料[47]による。

アジア地域
中東地域
アフリカ地域
ヨーロッパ地域
アメリカ地域

留学プログラム

語学研修

  • グアム大学(英語)
  • コンピエーニュ工科大学(フランス語)
  • ハルビン工業大学(中国語)

短期留学

  • ハルビン工業大学(中国)
  • パシフィック大学(アメリカ)
  • コロラド大学ボルダー校(アメリカ)

長期留学

  • ハルビン工業大学(中国)
  • スウェーデン王立工科大学(スウェーデン)
  • コンピエーニュ工科大学(フランス)
  • ペンシルベニア州立大学(アメリカ)

産官学間での連携

千葉工業大学では、企業、研究機関及び自治体、地域組織と連携して共同研究を行っている。

主な連携団体(判明分)

企業との連携

  • 大和ハウス筑波大学(高齢者在宅健康管理・支援システムを共同開発)[48][49]
  • ツクバリカセイキ筑波大学富士ソフト(布ベルト用自動走行計測ロボットの開発)[50]
  • 習志野市産学官連携プラットホーム事業[51]
  • 千葉銀行(中小企業向け助成制度「ちばぎん・研究開発助成制度」。千葉銀行、千葉大学と連携した中小企業向け助成制度)
  • 三菱重工業(技術提携。原発ロボット「櫻弐號」などのロボットを共同で開発)
  • 大成建設(自律型鉄筋結束ロボット「T-iROBO Rebar」などの建設用ロボットの共同で開発)
  • パナソニック(ロボット家電の開発拠点を共同で設置)
  • ジェフユナイテッド市原・千葉(包括連携。トレーニング施設の共同利用及びスポーツ交流)

自治体との連携(協定)

千葉県

研究・教育機関との連携(協定)

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社会との関わり

新聞広告「科学者に告ぐ」の公示

2022年5月千葉工業大学は『千葉日報』に「科学者に告ぐ」という表題の全面広告を掲載した。これは科学技術が軍事力に転用されることに警鐘を鳴らすものである[52]

工大の煉瓦門(文化財)

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千葉工業大学通用門(旧鉄道第二連隊表門)
現在千葉工業大学が使用している通用門は、かつて同敷地内にあった鐵道聯隊が使用していた営門を残したもので、銀杏並木がならぶ通用門は国土の歴史的景観に寄与しているとして、1998年登録有形文化財に登録された[53][54]。一般には「工大の煉瓦(れんが)門」[53][54]、または「工大の赤煉瓦(あかれんが)門」[55]と呼ばれている。

メディア

撮影協力・製作協力

事件・不祥事等

  • 2012年に千葉工業大学側の報告によって経済産業省からの研究費使用に関して不正のあったことが発覚した[56]。具体的な不正の内容としては、千葉工業大学の研究者が物品などを購入していないにも関わらず、取引業者より購入したとする偽装工作を行い、同研究費から業者に物品購入代金として金を支払っていたというのが一点[56]、もう一点は千葉工業大学の研究者が同研究費を私的目的に使用し、その金の流れを取引業者に研究目的のための物品購入であったことを偽装工作させるなどした[56]、というものであった。これら千葉工業大学の不正に関し経済産業省は、交付した研究費の返還、一定期間研究費交付停止、などの処分を行った[56]
  • 2017年1月10日に大学教員が学生の成績情報などの個人情報をメールに添付し外部の複数の人物に送信してしまう事件が発生した[57]。流出した情報は、学生の氏名や学籍番号、成績などであったという[57]
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企業からの評価

出世力

  • ダイヤモンド社の2006年年9月23日発行のビジネス誌『週刊ダイヤモンド』94巻36号(通巻4147号)「出世できる大学」と題された特集の出世力ランキング(日本の全上場企業3,800社余の代表取締役を全調査[58][59])で、千葉工業大学は、2006年時点で存在する全国の744大学中、第50位にランキングされた[60]

脚注

参考文献

関連項目

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